婢子会(大正13年11月より同15年8月にかけて活動した関西で最も古い郷土玩具の研究、同好会)の同人。他の同人は、友野祐三郎(主宰)、筒井英雄、尾崎清次、西原豊で計五人。
黒田源次(旧姓有馬)は明治19年12月9日熊本市に生れた。実父は熊本の初代市会議長有馬源内。号は喪心亭、薼廬。熊本県立済々黌、旧制第五高等学校から京都帝国大学文学部で心理学を専攻、明治44年6月卒業後大学院に進み、大正3年同大学医学部副手となって生理学を修めた。大正9年講師となり、同12年文学博士の学位を受けた。大正13年から文部省海外研究生となりドイツに赴き、ライプチッヒとベルリンで学び、同15年帰国したが、黒田が婢子会に関係したのは主にこの時期であったと想像される。
やがて満州医科大学教授となり、生理学教室を担当した。昭和6年生理学研究のため欧米各国へ留学、主にベルリンに滞在して研究をつづけ、同9年帰任した。この間、満州大学学生監、満州教育専門学校教授を兼務し、昭和14年同大学図書館長及び医学陳列館長、同大学予科主事兼教等をつとめた。
昭和21年満州から帰国、同22年東京帝室博物館嘱託、同年国立博物館奈良分館長、同27年奈良国立文化財研究所長兼任、同年奈良国立博物館長となった。昭和32年1月13日心臓疾患のため大阪大学医学部附属病院で逝去、行年数え年72歳。
研究は多方面にわたり、心理学、医学、薬学、支那学、考古学、美術史、日本古代史などに及ぶ。主な編著書に〈上方絵一覧〉(昭和4年、京都、佐藤商太郎商店刊)、〈条件反射論〉(大正13年、京都、生田書店)、〈心理学の諸問題〉(大正13年、東京宝文館)、〈西洋の影響を受けたる日本画〉(大正13年、京都中外出版株式会社)、〈長崎系洋画〉(昭和7年、創元社)、〈芭蕉翁伝〉(大正11年、聚英閣)など多岐に渉る。
〈郷土趣味・39号〉によると、大正12年3月2日に黒田源次と田中緑紅が、愛知県の尾張田縣神社を視察したとの記事があり、また大正13年1月の同誌48号の会員名簿に黒田源次が特別会員、京都帝大医科生物学教室とある。
大正14年7月の〈鳩笛〉には田中緑紅の記事として「京都の趣味家(上)」の中で黒田源次を次のように紹介している。
「黒田源次氏 〈西洋の影響を受けし日本画〉の著者のある文学博士で今尚研究をつづけられて居る。吾々の知ったのは新しいが其博学なる事、其熱心なる事、新しいものには実に懇切に教へられる。第一が版画であって長崎絵等が名高くもてはやされる様になつたのは氏の賜物である。玩具も一時大変熱心に集められたが、目下大学心理学教室へ預けられたとやら寄贈されたとやら」
大正15年2月の〈日本土俗玩具集〉に黒田の「民族信仰と玩具」という論文があり、要約を原文のまま一部紹介する。
「玩具といふとつまらぬ玩弄品のやうに見えるが必ずしもそうでない。特に古くから伝はつてゐる地方の土俗玩具を見てみるとそれが民間信仰と如何に密接な関係を有するものであるかを知るのである。~ 玩具を論ずるには其の玩具に付随した伝説を調べねばならぬ。同時に遊戯とも分つ可らざる関係を有つて居る。更に玩具も遊戯も祭礼や年中行事と起源から言つても密接な関係がある。従って我が国の玩具を土俗学的に解釈すると言っても現在直ちに十分に望むことは不可能である。 ~ 私は民俗信仰と特に関係の深い土俗玩具――仮に禁忌的玩具とでも呼ばう――の如何なるものであるかを思ひついたまゝを述べてみやうと思ふ」と書いている。
「まづ玩具の形態から言って人形類、動物類、器具類、楽器類、運動具類等に分つことが出来るであらうから、まづ是等の種類に従って其等の禁忌的意味を有つものを挙げてみよう。人形類の民俗信仰に関係が深いといふことは言ふまでもない。否人形そのものが本来禁居忌的なものから発達して来たといふことは疑を要しない事実である。現在の人形類では最も古い形式を有って居ると考へられるカタシロ(形代)やヒトガタナ(人形)は別に撫物とも言ひ各地の神社や祈祷師に由って払除(ハラヒ)の用具として実際使用せられつゝあるものである。私の手元には吉田大元宮などのヒトガタがある ~ 先の人形(ヒトガタ)を撫で物と言ふのはそのヒトガタで身体を撫でゝ其の部分の疾患を移し取り払い除くからである ~ 後年のヒトガタは陰陽道又は仏教思想とも密接な関係はあるが、これも支那伝来のまゝと考へるよりも我民族の先史時代から有つて居信仰と陰陽道とが融合したと見る方が穏当であらう」と述べ、具体的に〈日本記〉、〈倭訓栞〉、〈釈日本記〉、〈貞丈雑記〉などの記載を示す。
「次にもう少し複雑になつた人形の形式として天児(アマガツ)、婢子(ホウコ)といふのがある。之も本来は形代と同じく賄物(アガモノ)であり祓いの具である。天児は『其頭へ祓いの法を入れ這子(ホウコ)の如く下地を作り其上に練衣を着せ 顔頷杯に老の波をよせ 命の長き形をあらはし』たのであるが、元は祓いの為に用ゐた人形が転じて後に子供の守りとなり『三歳に至るまで其枕頭に置き悪事災難を之に負はせ』るやうになつた。婢子は『天児の略制なり小児のかたはらに置き邪祟ををはする形代なり』と見へてゐる。天児よりもいくらか禁忌の意味を減じたと見ることができやう。婢子には高松婢子、弘前、羽前一ノ関、山形、飯坂、岩代各地のコケシボーコ(木人形ともいふ)熊本のベンタ(お金女ともいふ)などが名高い。其他伏見、仙台堤、倉吉、津、山田、讃岐、高田などのおぼこ人形も婢子から転じたものであろう。勿論禁忌的意味が希薄になつておることはいふまでもない」と書いている。
黒田がこけしに就いて書いたのは多分この部分だけであろう。以下達磨、布袋、天神や、馬、牛、猿、犬、猫、鳩、魚等の動物玩具や獅子頭について述べる。
黒田はこけしを婢子の一種として扱い、元々婢子会の名前は、その目的は各地の婢子と思われるものを中心に集め、名簿を作り紹介することにあった。同書の写真は13図、各地の人形、紙雛、蘇民将来、お伽婢子、わら馬等で、第5図は「各地コケシボーコ」であるが、この他に大阪元高津神社人形(紙製 諸難除として授與す)、紀伊國日高郡湯川村小安明神人形(紙製 悪病除として出す)、尾張名古屋の紙凧の現物が貼られている。こけしも含めてこれらのものを全て婢子として扱ったわけである。なおこの時の黒田の住所は京都市繩手四条上ル弁財天町であった。
婢子会の代表友野祐三郎もこうした立場、目的から蒐集を始めた。友野は蒐集について、3通りの立場があると言い、同書の「土俗玩具蒐集に就きて」で「その第一は、自分の趣味によってのみ集めること、第二は民俗心理学乃至土俗学より集めること、第三は民衆芸術といふ立場から集めてみることである」と述べ、黒田はまさに第二の立場をとった。
また同人の尾崎清次は、小児科医の立場から、笠原小児保健研究所出版で「小児疾病の呪禁に関する玩具」(昭和4年9月)、「結婚・妊娠・出産及食の呪禁に関する玩具」(昭和5年3月)、「小児の幸福を祈りて贈る玩具」(昭和6年1月)の3部作を版画で自画自刻したが、これは黒田の影響を受けたものと思われる、尾崎はその後〈朝鮮玩具図譜〉、〈琉球玩具図譜〉を発刊する。梅林新市も〈育児に関すれ禁厭玩具〉(昭和9年11月)を出版して当時この様な玩具研究方向があった。
また後年黒田の研究方向を更に深く広げたのは久松保夫で、〈木の花〉に「はうこ考」として次々連載したが、その集大成は昭和58年1月にグラフィック社から上梓された〈こけしの世界〉の「人形の歴史」であろう。人形を古代から解き明かし、最後はこけしに至る系譜を連綿と書き書綴ったが「げに、〈こけし〉という名の人形は・・・」と書いて未完に終わったのは極めて残念なことであった。
黒田がもう少し土俗玩具の方に固執してくれたら、さらに大きな進展があったと考えられるが、後年は奈良博物館の館長等の要職も多く、仏教美術などの方向に向いてしまった。また友野の指摘した第二、第三の研究方向も徐々に玩具の世界では薄まってきたようだ。