婢子会の代表者として、各地こけし群像写真を始めて掲載した〈日本土俗玩具集〉全5輯を刊行した人物。
この友野祐三郎については、橘文策の手書きの〈こけし用語集〉に以下の様に書かれている。
「兵庫県在住の人、郷土玩具蒐集家として古くより名あり。黒田源次、筒井英雄、尾崎清次、西原豊の諸氏共に婢子会を作り、土俗玩具(大正12年12月)展覧会目録、日本土俗玩具集五編(大正13年11月より大正15年8月)地方別解説書、日本土俗玩具写真集帙入二冊(大正14年2月)などがある」
友野の生年月日や職業などは不明であるが、長らく兵庫県武庫郡御影町1318に居住で、戦前は橘文策の「木形子研究会」や、渡辺鴻の〈鴻〉の会員でもあった。また蘆田止水(本名 安一)が主催となって大正15年9月19日に大阪天下茶屋の「楽園」において淡島寒月追悼会が開催され、寒月翁を偲ぶ品物の展示やオランダ情緒の異国茶会等も開かれた。その発起人には石割松太郎、濱忠次郎、渡辺虹衣、川崎巨泉、高安月郊、伊達南海、中井浩水、南木萍水、山田新月、木村旦水、三宅吉之助、三好米吉等と共に友野祐三郎も名を連ねている。ただそれ以外表立った活動は少なかったようだ。
淡島寒月追悼会 大阪天下茶屋の「楽園」この中に友野祐三郎もいる
何れにしても、友野祐三郎は婢子会の代表として知られ、日本土俗玩具集の中で3通りの立場があると言い、同書の「土俗玩具蒐集に就きて」で以下のように述べている。
「不圖した動機が私を土俗玩具の蒐集にむけた、何でもない事、ただのその形なりが余りにも趣味が深いために一、二個を買い求めたのが動機となって、土俗玩具と云えば心が躍るようになった ~ 私は蒐集について大体三つの立場があると考へてゐる、その第一は、自分の趣味によってのみ集める事である。即ち集めて楽しみ、見て楽しむ事である。 ~ 何れにせよ之は楽しい立場である。玩具を観て法悦の心に浸らむとするのである。 ~ 研究よりも集める方が主となる場合が多い。之も極めて必要な蒐集の方法である。自己の研究しない場合は他人に材料を供給する事ができる。さうして理屈無しに誰でも集める事が出来る。第二は、民俗心理学乃至土俗学の立脚地より集める事である、勿論之にも自己の趣味は付随する、併し全体としては土俗玩具によつて民俗の源泉を知らうとするのである、土俗玩具の源は遠い、おそらく数百、数千年の昔より民俗の間に伝へられたものがあろう。 ~ 例えば現今迷信として公に禁ぜられ、或いは一般の所謂知識階級から捨てゝ顧られないやうなものゝ中にも意外に重大なものゝひそんで居る場合がある。例へば現時尚各地の神社に多少存して居る「ヒトガタ」乃至「カタシロ」の如きものも黒田博士の説によれば紙雛の源であるといふ。此の如き場合が他にも多い、私たちは民衆の心を注視しなければならない。或いは又、外国玩具との比較によつて、時には先住民族の流れに乗った、経路を知るやうな場合もある。 ~ 私達は単なる骨董的好事的好事的の意味からでなく、此の方面からも興味を持つ事が必要だあると考える。第三は民衆芸術といふ立場から集めてみることである。近来農民芸術といふ事が屡論議せられるやうになつた、併し土俗玩具を細心に注意すれば殆ど大部分は農民芸術であるとも云える農民芸術といふ語よりもむしり私は民衆芸術又は土俗芸術といふ言葉を用いたい。勿論此の民衆芸術といふ語は近来盛んに論ぜられゐる、文芸上の民衆芸術ちいふ語とは多少の意味を異にしている、寧ろそれよりも一層広義に用ゐたいのである。土俗玩具の殆ど総ては民衆の心から生まれたものである。さうして或る時代には民俗の心を支配し盛んに生産せられたものである。今こそ減絶したものも絶えつゝあるものもあらうけれど、それ等は我民俗の過去が生んだ尊い民衆芸術である、その中には適当な方法を以って保存したいと思はれるものも多い、単なる玩具といふ立場からでなく芸術として眺める必要がある。 ~ 以上に於いて私は土俗玩具蒐集上の感想の大体を盡したつもりであるが蒐集に付随して起こる問題は其の分類である、私は是非とも其の目録を作製する事が必要であると信じる。目録を作ることによって私達は玩具の知識を正確にする事が出来る。 ~ 時代は進展する、新時代のセルロイド製玩具の勢力によって土俗玩具は次第に其の影を没しやうとして居る、今はその蒐集の時期である、今の機会を失はむか我民族と関係深き土俗玩具も永久に手に入る時は無いであらう。私は同好者の数の一人にても増し、此の貴重な玩具の一日も永く此世界に存在する事を祈らざるを得ない」(原文ママ)と力説している。
婢子会同人のうち友野や西原が上記第一、第二、第三のいづれの立場で玩具を見ていたか判然としないが、少なくなくとも黒田、尾崎等は間違いなく民俗心理学や土俗学の中から玩具を扱い、第二の立場を採っていたと思われる。一方筒井は大阪市南区日本橋南詰で「筒井郷玩店」構え、むしろ第一の立場が強かったと思われる。
田中緑紅(俊次)は、大正7年1月に〈郷土趣味・第壱号〉を発刊するが、同誌48号には郷土趣味社会員名簿があり、特別会員に黒田源次の名があり、また西原斜夕(京都祇園町切通東)の名もあり、これが西原豊と同一人物かどうか判らない。また正会員には尾崎清次(兵庫県大手通三ノ井19-1)の名がある。
ところで、この田中と友野、尾崎、西原が袂を分かつ事象があった。
〈鳩車・第2号〉(大正14年4月)田中緑紅の「おもちや蒐集・2」によれば大正11年年秋、当時京都帝大の心理学専攻から、医科石川博士の生理学研究に進んだ黒田源次と知り合い、京都医専の尾崎や、友野、西原などを紹介され、翌12年に神戸児童健康相談所顧問の黒田から神戸幼稚園で現代の各種玩具展示出品を依頼されたという。同時に期日中に講演会が開催され、結局誰も付き合わずに田中一人が講演したのである。しかし翌12年の同会は、田中には案内もなく会期を終えたらしい。田中は「第二回の時には御案内も頂かないでしまひました。黒田氏はソンナ筈がないとの事でしたが事実、何の音さたなしに会期は終わりました、大変盛会だつたそうで、此時から友野、西原、筒井氏等が活躍されたときゝます、そうして此人々で何か集まりができたのだそうですが私は不幸にして、そんな立派なおもちやの研究会が出来たのを一年間知らないで、黒田氏の外遊になつてから筒井氏にはじめて伺ったのです。これが大正13年11月のことです。 ~ 自分の知らない事でお教はつた事は少しも云わないで書かれたものゝの欠点のみを云い、人がやつとの思ひで研究したものは、だまって失敬位の事で、実に始めの土台になるものはつまらないのです」(原文ママ)等と書いている。
田中の怒りは大きく、〈日本土俗玩具集〉は当初12輯の予定が、5輯に変更になったのもこうした事情からのようだ。友野祐三郎、西原豊、尾崎清次の3名による「日本土俗玩具集第壱輯発刊に当たりて」によると「田中緑紅から『玩具の書物を出すのに今迄一言の挨拶もしないのは不徳義である。而もそんな書物を出すと〈郷土趣味〉の出版上非常に困る』といふことで、特に同人であった筒井英雄氏に向かって極めて不服を構へられました、之は私共の意外とするところで非常に迷惑しましたが、筒井氏は田中氏と面識のある関係上止むを得ず本会を脱会しやうと申出られました。黒田博士外遊中に今有力な筒井氏を失うことは甚だ遺憾でありますが、其の立場上止むを得ずとすれば微力ながら私共で極力事に当って土俗玩具集の完成を期します。」とある。
趣味人は十人十色で、趣味は千差万別でこの当時にしても思う所のかみ合わないことがあったのであろう。大きな会の集まりにしても、少人数の会にしても分裂することはしばしばあり、ある意味確執を繰り返すのは「趣味の会」の宿命かも知れない。
古くから趣味人たちにはいくつものグループがあり、個人の多くは複数の会に所属して多彩なネットワークを展開している。その交叉したネットワークの中で絶えず会合を行い、情報の交換などを行っていた訳である。戦前の各地に出来たこけし会は、今より緩やかに離合集散を繰り返したが多くは集団指導体制で維持されていたようである。
今日ではネット社会の進展で、趣味人たちのネットワークは個々人が結節点となって多様化していく傾向があるが、個人の価値観が中心となる活動としてはこれが本質的な姿であるのかも知れない。
なお婢子会はその後、黒田は玩具とは別の世界で活躍し、尾崎は小児科医の立場から玩具に関する本を上梓したが、友野、西原のその後の活動ははっきりしない。