明石染人

明治末あるいは大正初期からこけしを本格的に集め、産地訪問やこけしの頒布会までを行った最初の人。

明治20年5月6日、京都の明石博高の三男に生まれた。本名は国助。
明治42年7月、京都高等工芸学校染色科卒業、翌43年11月に同校助教授となり、繊維品加工(精練、染色、捺染、整理)学、及び染織工芸史等を専攻した。大正9年に鐘ケ渕紡績株式会社に入社し、昭和9年同社山科工場長となり、その年同社より、研究、視察、蒐集のため、ヨーロッパ、埃及、印度その他へ派遣された。昭和19年同社本部繊維部長となったが、同22年病を得て退社した。
鐘紡在職中の昭和2年には〈染織史考〉を刊行し、その他染色に関する著作も多かった。また鐘紡に在籍中の昭和10年から、恩賜京都博物館学芸委員嘱託を委嘱され、鐘ケ渕紡績株式会社退社後の昭和25年からは京都工芸繊維大学講師、京都市立美術大学講師、文化財専門審議会専門委員、京都メリヤス組合の理事長等を務め、また昭和28年より正倉院御物古裂調査委員の任にも就いた。日本染織美術協会から刊行された〈染織美術〉には「近世染織美術史」などを寄稿した。染織工芸界においては広汎な専門知識を有する権威でもあった。京都市東山区山科厨子奥若林町に居住した。昭和34年1月27日、京都市の自宅において、脳溢血のため急逝した。行年数え年73歳。

染織美術 創刊号 1950

中学生の頃から好古癖があり、旅行好きから、郷土玩具、絵馬を集め、こけしも大正初めころから
集めていた。大正6年に「平安おもちゃ会」を創設、郷土玩具、こけしの頒布を全12回にわたって行った。田中緑紅は「郷土趣味」(大正7年~大正14年まで56冊)を発刊したが、その中に明石染人の記事が多くある。こけし熱高く、東北にも行って工人を訪ね、何本もこけしを並べ、興味もない人にも惜しげもなくこけしを分け与えたという。田中緑紅は明石染人を「日本一のこけし愛着家と云っても過言でない」と評していた。


明石染人の稿 〈郷土趣味・4〉 執筆者名が明人染人となっているのは誤植

また〈鳩笛〉などにも玩具に関する投稿を行った。明石染人は〈鳩笛〉の賛助会員でもあった。


〈鳩笛・2号〉 大正12年3月 ちどりや、田中緑紅(俊次)発行

こけし趣味草創期の重要な蒐集家であったが、こけしを専門とする人士が活動を始める以前の人であったため、従来取りあげられる機会はほとんどなかった。
残念ながら明石の集めたこけしは一切知られていないが、婢子会や京都の趣味人(友野祐三郎、尾崎清次等)に引き継がれたのかもしれない。昭和15年頃は〈鴻〉の会員でもあったが、その他の活動についてはほとんど記録がない。

なお、戦後すぐに川口貫一郎が出版した〈郷土趣味 こけし:2号、3号〉に棲花居主人の執筆で明石染人に関する詳しい記述(下に引用)がある。


「郷玩趣味 こけし」右、復刊二号 左、復刊三号 川口貫一郎
棲花居主人の「こけしに想ふ」正・続に、明石染人のこけし愛に関する記事がある

棲花居主人が誰であるかについてははっきりしないが貴重な記述であるので下記に引用する。


 こう云ふ様に見て来ると、誠にコケシ人は少ないと思ふ、処で、郷土玩具が云々せられる様になつた大正初期に、このコケシを問題視していた人はあつたであろうか ~ コケシに関心を持つものには嬉しい事で ~(2号)

 処で私は前に、真のコケシ愛好者はいついつまでもアキの来ない人だと云ったが、果たしてこうした方は何人あるのか、川口氏に伺ひたいと思ふ、私はこゝに恐らく一般コケシ同好者の名簿にない、真にコケシ愛好者のある事を紹介したいと思ふ。
 名は明石国助氏、号染人、明治二十年生れの本年六十三才、 ~ 私は氏に教あつた事は数限り無くあり、私が郷土玩具を全国的に蒐集旅行をする様になつたのも氏に感化を受けてからの事である。それは大正六年であつたから今から三十三年前の事である、氏の蒐集の玩具を拝見し其の説明を聞いて、初めて自分もやつて見ようと思った、勿論このうちにコケシが数本あつた事は云ふ迄もない、氏は特にこのコケシが好きであった、又しとつき(?)出して、その良さを話してくれるのだが、鈍感な私には氏のコケシに持つ愛着は感じない、とにかく「平安おもちや會」をこしらへ同好者を募集して毎月各地の郷土玩具をとりよせ、三四個を配布する事にした、それにステンシル刷の絵をそへ、染人氏に解説をかいて貰つてそれと共に配布した、会費が五十銭であるからどんな安い会であつたか知れる現今二百円はするだろうと思ふう、この会は大正六、七年の頃十二回続いた、それから郷土研究の雑誌「郷土趣味」を刊行した、丁度柳田国男氏の「郷土研究」が中止されたすぐであった、これは大正末迄五十四冊発行して中止してしまつたが、これに郷土玩具の解説をかきだした、恐らく郷土玩具研究の古い処であつたであろう、だがコケシの研究にはふれていない、其後染人氏は種々な新聞や雑誌に郷土芸術として玩具や絵馬を紹介せられた。
 然し氏の身辺が多忙になると執筆はなくなつたが、尚氏の書斎にはあちこちに郷土玩具がならび、床にコケシが離れないでいた。
二、三年前久々商工省嘱託で東北へ行かれたとき、歓迎の町長や有力者にコケシを求められて驚かされたと云っていられる。百数十本のコケシが荷物から出てきて、これは何処の誰作と云って二・三本貰ったことがある。私より古くからやつていられるのであるから、染人氏のコケシ熱は四十年にもなるのではあるまいか、そうして尚沢山本箱にならべ、気のない客に迄説明をしてその良さをほめ、惜し気もなく人にやつてしまふ、染人氏のよい癖であり悪い癖は何でも物を人にやる趣味である、その人にホント―にわかるなら、やつてもよいがロクにわかりもせぬ人に呉れてしまうので惜しいと思ふことも再三である。それでも尚コケシが本箱を占めているのはよくゝコケシ好きな人だと思ふのである、然も忙しい講演旅行でも、東北へ行けば必ずコケシを求め、時間の都合がつけば製造元も訪ね歩いて、其の土産話を聞くことも再三である。私はコケシの雑誌を見話(?)が出ると一番にこの染人氏を思いだすのである。この人こそ日本一のコケシ愛好家と云つても過言ではあるまい、氏は多忙ではあるが、もし面接をする事があればコケシ談を持ち出して聞かれるとよい、必ず時間を忘れ一くさり二くさりいつ迄もコケシに魅入られた様に話をされるに違ひないと思ふ、コケシ仲間に入らないでもコケシの第一の後援者に明石染人の居られる事は、コケシの為にも嬉しい事と思ふのである、京都山科厨子奥に住はれてゐる(昭和24年2月9日) (3号 原文ママ)


明石染人は、或る意味で本当のこけしマニアの走りかも知れないが、この一文が書かれた当時昭和24年から40年前となると、明治の末になり、すでに子供のおもちゃとしてではなく、いわば土産品として求め、それをスーベニールとして友人に配った事実は、それ以後のこけし存続の姿を決めたある意味草分け的存在かも知れない。明石染人は本来染織工芸の専門家であり、蒐集のため日本各地はもとより、欧州、エジプトなどへ派遣され、各地の民芸工芸品を自然と集めるようになったという。ただ昭和に入ってからは、本業に忙しく、こけしや郷土玩具に関する著作は疎かになった。

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