昭和初期から戦前にかけて関西において活躍した玩具蒐集家。大阪市西成区南吉田町(旧地名)に住んだ。本名は梅谷秀文、本職は歯科医であった。その歯科医院の建物は現在でも天下茶屋に残されており。板張り洋風木造三階建ての大正期洋風建築として大阪府の登録有形文化財になっている。
明治32年8月25日大阪南地阪町、所謂南地五花街の一つの繁華な地に生まれた。大正5年頃には東京に出ていて、おそらく学生生活を送ったと思われる。〈苔瓦堂日録〉を残した青木賢肇と交流があって、青山が本郷 3丁目金助町の梅谷の下宿幸運館を訪ねたという記録がある。青木賢肇(青賢肇)は後に娯美会においても梅谷と交友があり、神仏御影の蒐集家として記録されている。
梅谷秀文は、姓に梅があり、誕生日が25日の「天神さんの日」(菅原道真公の誕生も逝去も共に25日)であったことから天神にちなむ玩具を主に蒐集した。「郷土玩具に就いて、天神様を主に集めていますが、見れば何でもすきです。三春の玉兎、長崎の鯨の潮吹き、英彦山の土鈴は郷土玩具の王座に位するもの、近頃の創生玩具とやらは、とてもあしもとに及ばず」とも書いている。大正8年頃に始まった浪華趣味道楽宗や、その中の気の合った仲間達の娯美会ややつで会もに加わった。やつで会はに郷玩やこけし好きの9人(西田亀楽洞、村松百兎庵、梅谷紫翠、鹽山可圭、粕井豊誠、中西竹山、芳本蔵多楼、青山一歩人、河本紫香)が集まって始めた会。
当時のやつで会では会員の中西竹山が「旅行くらぶ」という団体の幹事であった関係上、東北に行く機会も多く、そのたびにこけしを仕入れてはやつで会で頒布していたらしい。また〈こけし這子の話〉や〈日本郷土玩具・東の部〉などをもとにやつで会ではこけしを盛んに取り寄せたと梅谷紫翠は書いている〈こけし手帖・2号〉。
下掲の紫翠のこけし棚を見ると、周助が何本かある。胞吉、久四郎、勘内、盛、岩蔵、勝之助、梅吉などが揃っている。胞吉、周助、久四郎はやつで会頒布と思われる。
また浪華面茶会(なにわおもちゃかい)に同人として加わった。この会は昭和7年に面茶塚(おもちゃづか)を大阪天王寺区生玉前町隆専寺(さくら寺)に建て、面茶塚建設式が12月11日に開催された。浪華面茶会の主な同人として梅谷紫翠の他に落語家林家染丸、桂小春団治、橘家蔵之助、三遊亭円馬、同しん蔵、西成区長野々田豫里、画家川崎巨泉、井崎一蝶、芳本倉多楼、中西竹山、木村旦水、三宅吉之助、粕井豊誠等の名が記録されている。参会者は総勢で数十名、午後3時から隆専寺住職の読経で開眼式があり、本堂では同人自慢の作品や蒐集品を展観したという。なお、隆専寺は桜の名所でもあるので、その季節には観桜面茶会なども開催されたという。
また梅谷紫翠は、土俗研究雑誌〈土の香〉にも何回か寄稿している。「土の香」は、昭和3年から終戦後にかけて、愛知県一宮市三条(旧中島郡起町三条)に住んでいた加賀治雄が主宰していた土俗趣味社が発行し、方言に関する研究/祭神祭礼信仰に関する伝説神話/神社仏閣、史跡、遺址に関する調査報告/性に関する信仰伝説/冠婚葬祭に関する信仰伝説、奇習/絵馬、名物、玩具に関する伝説来歴等々に関する記事を掲載した。下掲の〈土の香・8号〉には梅谷が「大阪小絵馬漫談」を寄稿している。
〔参考〕
- 梅谷紫翠:艶色阪町風景 〈郷土研究上方・50号〉
- 梅谷紫翠:縁のないこけし〈こけし手帖・2号〉(昭和30年4月)