岸本彩星

岸本彩星(本名五兵衛、3代目)は、明治31年12月1日、大阪市西区西長堀南通4丁目10番に、2代目岸本五兵衛の長男として生まれる。叔父は岸本兼太郎。西長堀の白髪橋(しらがばし)近くに岸本汽船株式会社本社と自宅があった。2代目五兵衛が大正4年1月19日に52歳で死去のため、同年岸本家を3代目として相続した。岸本汽船株式会社社長、摂津銀行頭取、神国海上火災保険株式会社社長など幾多の会社の重役を兼務した。大阪財界の重鎮として長らく活躍し、叔父兼太郎が社長時代に助力した小林一三等とも親交があった。昭和21年3月6日逝去。行年49歳。

岸本五兵衛

初代五兵衛は(1837~1927)播磨国加東郡下東条村(兵庫県小野市)の農家に生まれ、20歳のとき大坂に出て廻漕業者赤穂屋に奉公し、幕末から明治大正期にかけて大阪で肥料商、海運業者として成功した。二代目五兵衛(1864~1915)は、明治19年に汽船を購入して、廻漕業・海運業に乗り出し、日清、日露戦争時に莫大な利益を挙げ、明治41年岸本汽船株式会社を創立して社長となった。
 三代目岸本五兵衛が郷土玩具の蒐集にはいったのは、「大正3年佐四郎氏(久保佐四郎)の会に入り、作品郷土玩具写しを見てより興味を感じ実物蒐集を始めました。然し一定の方針を立て熱心に集めだしたのは、各玩具が追々廃滅し行くのを見て、今のうちに出来る限り保存して置きたいといふ希望から御大典記念として同時代からです」と述べている。また「人は一生を通じて童心を持ち続け度いものです。其れで趣味も種々在りますが、最朗な玩具蒐集は種々な意味で大変良い事と思います。特に郷土玩具は製作時代により各地当時の風俗習慣が窺われます上豊富な伝説も有り、家庭的趣味としては最高のものと信じます」とある。
 岸本のコレクションは、神戸市東灘区住吉反高林(兵庫県武庫住吉村)の豪壮な別宅にあり、「子寿里庫」(ねずりこ=関西でおしゃぶりの意)と称して、国内はもとより、中国、朝鮮、南洋関係のものを多く集めた。また郷土玩具ばかりでなく、民俗資料も数多くあり、多彩で特異な資料も多く有った。これが可能だったのは岸本が汽船会社のオーナーであり、搬送や入手が容易だったことも挙げられる。
 また特に中国玩具を岸本に提供した人物として須知善一(峡風)がいた。須知は 明治30 年に京都丹波生まれで、大阪の貿易会に勤務、さまざまな「趣味の会」に所属し、国内で版画や郷土玩具を収集していた。大正14年には中国の大連に移り住み、大豆の仲買人として働いた。この頃から中国の郷土玩具に興味を持ち、大陸各地を訪れて玩具を買い集めるようになった。関東軍幹部との人脈があり交通の便がない僻地や治安の悪い地域へも足を運び、中国大陸各地の珍しい玩具集めることが出来た。
「子寿里庫」では、最初は私設ギャラリーとして、親しい人を招いて自慢の資料を披露することも多かった。やがて住吉の別宅では毎年5月に園遊会が開催され、財界人、趣味人など数百名が集まり、関西趣味会の一大行事となった。それに伴って、多くの蒐集家や業者からも逸品を手に入れる機会が増えたということもあった。
収集品は、岸本編集による〈子寿里庫叢書〉と名付けられた四巻の図録で紹介され、その 第一編〈天王寺の蛸々眼鏡〉(昭和12年5月)、〈異国虎の玩具図絵〉(昭和13年)、〈ニューギニヤ其附近島の土俗品〉(昭和13年)、〈貯金箱〉(昭和15年12月)、および〈南方共榮圏の民藝〉(昭和18年12月)などの著作がある。〈天王寺の蛸々眼鏡〉には南木芳太郎の序文や、中井浩水の祝辞、彩星童人の自序に続き、「蛸々の文献」「蛸踊りの家元船木嘉吉翁」「名物蛸々眼鏡の来歴」「蛸踊りの絵画と人形」のほか、「たこめがね」の芸人である「西村庄次郎翁の追想」が収録される。

天王寺の蛸々眼鏡

 なお岸本が玩具に関する文章を書く際は、「岸本彩星」、「岸本彩星童人」のペンネームを使用している。
 蒐集対象はこけしや郷土玩具だけではなく多くの民俗資料もあった。こけしについては、本館(東館)にこけし部屋があり、昭和9年11月25日、子寿里庫の日本郷土玩具陳列館として公開された。古いものは大阪の筒井、乙三洞、西村庄次郎などから、新しいものは橘文策の頒布品などからの蒐集品であった。橘は佐野健吉(山三)や平田郷陽(人形作家)などを紹介された。岸本蔵品中には、佐野健吉が鳴子に行った時に、高野幸八に作らせたと云われる尺三寸、髷とおかっぱで男女一対の自慢のこけしがあった。胴は菊模様で、イタヤ材、一見作為が露骨なものであったといわれる。深澤要はじめ多く当時の蒐集家が見ているが、不思議に写真が残っていない。この他に、土湯の西山弁之助、鯖湖の渡辺角治・キンの古作4本などがあった。下掲は、深沢要が子寿里庫を訪ね、そこで見た古鳴子をスケッチし、それを版画にして〈奥羽余情〉に掲載したもの。深沢要はこれを岩太郎ではないかと考えていた。


子寿里庫の古鳴子 深沢要版画

〈木形子異報・12〉の「愛蒐だより」で岸本は、好きなこけしとして、華麗な方では大野栄治、グロ味は岩本善吉、珍品は古鳴子男女一対と述べている。
 確かに岸本のこけしに関する趣向は変わっていて、どちらかと云えばグロ趣味で、例えば岩本善吉のこけしに赤い舌を出したのがあり、また木地山のこけしで、バランスの悪いのを選んだりして、「岸本趣味」といわれた。こけしは日当たりのよい3階にあり、一部退色があったのは残念であったと後年橘は述顧している。 岸本は、世界中の玩具を集める目的をもち、橘に「玩具が集まれば、財団法人にして、各部それぞれ専門家に研究を依嘱したいと思っていますから、こけしの方はぜひ協力して欲しい」と述べていた。世界中の玩具を集めて、その徹底ぶりはずば抜けて居り、各部屋に整理され専属の管理人を雇っていた。
 また橘のもとにしばしば訪れ、道修町の自宅に黒塗りのビュイック・マスターセブンに乗って現れ、地元の人を驚かせたという。当時運転手付きの車で移動する人は少なかったという。


橘文策宛ての葉書

また橘が渡満した後は、昭和14年に始まった関西こけし会にも同人として関わった。

関西こけし会の案内 石井眞之助宛

 資料の増加に伴いコレクションを公開したいと考えた岸本は、私設博物館の構想を練り、建設に着手した。しかし完成まであと一歩というところでアメリカ軍による空襲を受け、博物館と資料の多くは焼失してしまう。西館7階建ては全焼、東館3階建の一部が幸いに類焼を免れた。東館にあったと思われるこけしは水を被ったりして殆どが失われたようだが、民俗資料など一部がのこった。鹿間時夫は昭和22年大阪に行き、在阪の玩具人に会ったが、森田政信の乙三洞に行き、そこで売られていたのは、ねずり庫から出た、外国玩具や図書であったと〈こけし鑑賞〉で述懐している。その後多くは、昭和30年に大阪新聞の社長前田久吉(産経新聞創業者、日本電波塔社長)等の仲介で、天理大学の参考館に入った。

岸本の逸話としては「紅毛人形佳話」が有名である。郷土玩具店つゝゐの店主、筒井英雄から長崎の名人形師が明治初期に紅毛人をモデルとして作った美しい土焼きの婦人立像を譲って貰つたことがある。筒井英雄の話ではこれは日本文化に関する展示会があった時に、これと同じような男子の人形も確かに出品されていた思うが、出品者の名前は憶えていないとの事であった。岸本は「人形だって死物じゃない。ちゃんと息がかよっているんのや。このオナゴの人形に、幼馴染の殿御があった、というんやら、こりゃぜひとも夫婦にしてやらなあかんわ」と粋をきかしたが、何分にも相手が判らない。やがて趣味家として名のあった南木芳太郎(萍水)、中井新三郎(浩水)両名が岸本邸を訪れ、偶然にもこの人形をみて、この相手なら、茶湯の家元で元トルコ名誉領事の山田寅次郎が秘蔵しているという事が分かった。そこで中井新三郎が間にたって交渉したが、山田寅次郎も30年も愛蔵しており「それはウチの人形にうってつけの嫁御だ。嫁ハンにもらいたい」と話があべこべになる始末。仲人の巧みな外交手腕が、外交官の山田新三郎を口説き落として、めでたく岸本家に養子にもらい受けることになったという。この三国一の花婿は胸のあたりまでの短いマントを付けている美丈夫で大学教授か公使、婦人像は長いスカートをつけ、小粋にそのスカートの端をツマどっている優美なものであったという。岸本家の通称猫稲荷神社の初午祭の当日、関係者内揃い、めでたく華燭の典をあげた。安藤舜二はその時のお祝い品について、婿親の山田から舶来の婦人用手袋、仲人の中井からおもちゃの花輪、招き猫、来賓の西村庄次郎から紅唐紙製の大鯛籠入れ、森田乙三洞から紅白の真綿に代えてオランダ国旗になぞられた三色の箱入。三宅吉之助から木版刷ちんわんうた〈ちんわんぶしの歌詞を絵にしたもの)。中井浩水、南木萍水、松坂青渓、井葉野篤三、池田秀湖などからお祝いの即興俳句などが寄せられたという。大阪郷玩人らしい風雅な面影が偲ばれる。
 また住吉の別邸で開催された園遊会で特に記憶されるのは昭和12年の集まりで参加者に自著の〈天王寺の蛸々眼鏡〉が配布され、当日の目録「園遊会記」によると、岸本邸での展示も「蛸々眼鏡」特集であり、庭では「蛸々踊り」が演じられ、記念品は本書の他、彩星童人考案の「蛸々毛人形」が配られるなど、たこ尽くしであった。何事にも徹底していて、上方趣味人の本領を見るような傑出した玩具人であった。

下掲は昭和9年2月17日、大阪天満の野田屋で開催された第1回の木形子夜話会。前列向って左から二人目が岸本彩星。


木形子夜話会 第1回

写真の説明として以下の文が掲載されている〈木形子異報・3〉。

京阪紳、奈良、和歌山在住の「木形子の會」会員のうち希望者二十三名出席。ホールでは橘氏所有の未発表作者八名の珍こけし陳列、こけし作者人気番付発表などあり。記念撮影の後食堂が開かれた。
 デザートコースにはいって、一同のこけし愛好家としての自己紹介。野々垣、佐野、岡島、河本、梅谷、九十九等六氏の経験談感想談。っづいて岸本氏の支那挽物玩具の披露。橘氏の『遠刈田の作者を語る』等あり、一同に感銘を與へた。
座談にはいって意見百出、さすがに斯界の権威者の會合らしい熱を示して、此種の會合として稀に見る盛會であった。
木形子洞から来會者一同に遠刈田こけし、鳴子ネマリコの寄贈あって賑かに散會。

下掲は、昭和10年11月21日(木)野村倶楽部で開催された「木形子茶談会」。この会は。深澤要(前列右から4人目)を迎えて開催された。左から4人目の和服が岸本彩星。

茶談会

〔参考〕

 

 

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