田中野狐禅

田中野狐禅(政秋)

明治8年9月5日、東京神田に生まれた。本名は田中政秋。東京府士族。父は勢州亀山(現三重県亀山市)の士族、母は野州宇都宮(現栃木県宇都宮市)藩士の娘。内務省官吏で、昭和10年頃は内務省の嘱託となり、自ら内務省の古狸と称していた。東京市豊島区目白町3-3542(旧東京市外高田町巣鴨代地3542)に居住、その後、転居したとみられ、後年の名刺には、東京都麻布、笄(こうがい)、四と記載されている。晩年は福島県西白河郡釜子村本町に移った。昭和30年逝去、行年81歳。

野狐禅の名刺 裏表

 斎藤昌三主宰の趣味雑誌「いもづる」のメンバーであり、お互い(いも仲間)と呼び、仕事とは別に集める事、画くこと、吟じることなどの趣味のネットワークを目指していた。趣味は切紙、素画、八景、謡曲、詩吟。毒舌と筆誅、駄洒落。蒐集は狸、河童、番付、各種券、名物レッテル。変つた物、等々。
山口昌男著〈内田魯庵山脈〉の「いもづるに集まった人びと」にも、田中野狐禅に関して芦湖山人の〈日本近代畸人録〉からの引用がある。「メンバー中唯一の官吏である。名は政秋、号を初声ともいひ、明治8年に神田に生まれた。野狐禅というだけに徹底しきらぬところもあるが、内務省の官員さんとしてはまづ珍物の方。妻君運が悪く、娘と二人きりで淋しい生活であるが、去年逝かれた母堂には誠に天下の範たる孝行振りであった。この母堂頗るの口やかまし屋で、一寸杯も交換出来る女人で、夕飯のお酌の為には野狐禅真面目になって納らねばならなかつたし、為に細君も遠慮しつゝ年を重ねてしまったのでもあった。先生の懐中には常に白紙と西洋鋏が秘蔵されてゐて、女と対座すると知ると知らざるとに関係なく切紙細工をして好意を示す。妖怪、八景ものゝ異端的趣味を研究事項の主とし、ヘナブリ、川柳等の通俗文学をその従としてゐる。蒐集としてはおみくじ、千代紙等で、下らぬ味方ならこちらから御免を蒙るが、骨のある敵なら進んで握手するといふ元気。兎に角深切な老爺である。」
山口昌男は、野狐禅が日本青年館の開館式の際挙行された「郷土舞踊と民謡」の観覧記を書き、その中で「自分の妖怪研究」と記しているところから見ると妖怪研究が彼の本来の課題であったのかもしれないと付け加えている。
郷土玩具蒐集の動機については「大正4年は卯年なりしかば、卯の玩具蒐集者続出せるが、自分はカチカチ山の童話から連想し兎に反抗的に同情して狸を蒐集することにした、狸は元来トボケタ罪のない愛嬌もので、何故カチカチ山で悪る者にしたか不平でならぬ、趣味玩具として狸は最も好適である」と書く。そして「創作玩具の百出よりは郷土玩具の伝統的郷土色に興味を有し、其の廃絶を防御すると共に既に絶滅に帰せるものを復帰したき希望である」と述べている。
田中野狐禅(政秋)は、戦前の東京こけし会設立時の会員19名のうちの一人であり、他に天江富弥、川口貫一郎、武井武雄、稲垣武雄、加賀山昇次、牧野玩太郎、斎藤栄、浅沼広文、森俊守、秀島孜、山田猷人、西田峯吉、石井康策、岡村堅、深沢要、遠藤武、森卯喜知、加藤滋のメンバーとともに名を連ねている。
その会誌〈こけし・第2号〉に寄稿した「こけしの追懐」では、天江富弥の〈こけし這子の話〉を賛美し、「此の刊行に先立ち宣伝紙所謂チラシが郷玩人の間に配布された、半紙版四ッ折で麗はしい筆其儘(そのまま、ことごとく) を石板としたものであった。光栄にも自分は珍蔵して居るので第二回のこけし會席上之を発表したが今は著者の手元にすら残っておらぬ貴重なものなのであることが判明し、且つ自分がこのチラシ配布を受けた大正2年(昭和2年?)には玩具人として斯会の一隅に存在して居たことも誇り得たのである」と書いた。東京こけし會の例会には昭和17年中頃まで、殆ど参加していて、こけし生活も楽しんでいたようである。名刺に「年齢逆行の気分を保持し未だ嘗て老境たるを意識せず」と書いた。

野狐禅 印版

なお、平成17年11月29日から平成18年3月26日まで、福島県立博物館(福島県会津若松市城東町1-25)で、「集めて楽しい・身近な物ー館蔵コレクション展」が行われ、田中野狐禅コレクションと大竹正三郎コレクションが展観された。戦前の東京に暮らした収集家が集めた多種多様な品々と銘うって、東北地方をはじめ全国を訪れて集めた郷土玩具類が多かった。どちらも膨大な数量を誇る一大コレクションであったが、一方特別に高価なもので はなかった。むしろ身近にあるものを丹念に集めた所を共感して欲しいという展示であった。
著作として〈紙と鋏の芸術〉〈ヘなぶり 蘇鉄の芽〉 〈河川に因む郷土民謡行脚・1-6 〉 〈九州の河童族 ・上下〉等がある。

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