東京こけし会(戦前昭和14年より19年1月まで活動)は、昭和15年7月27日に鳴子にて参会者50余名を集めて現地大会を開催したが、翌月8月28日より9月1日まで東京の白木屋にてこけし展を開催した。こけし展の企画運営は、こけし展同人として川口貫一郎、天江富弥、稲垣武雄、山田猷人、秀島孜ら16名が担当した。
初日の8月28日および31日の二回に渡り閑院宮妃直子殿下が台臨され、実演等を親しくご覧になられたという記録がある。
このこけし展では、百貨店会場で工人によるロクロ操作の実演を行うという企画があり、当初その実演を東京厩橋で木地工場を経営していた小島正に依頼していた。小島は簡単に引き受けたが、実は小島工場の木地作業は主に鳴子から来ていた大沼正雄(大沼竹雄の弟)が担当して、小島は殆ど木地が挽けなかった。しかも木地を担当していた大沼正雄は昭和15年1月に身体を壊して亡くなっていた。こけし展開場の間際になって、初日に閑院宮妃がお見えになると聞いた小島正は急に怖くなり、病と称して入院してしまった。東京こけし会は困惑し、やむなく福島県原ノ町の高橋忠蔵に実演を頼んだ。しかし初日には間に合わず、実演は2日目と3日目になった。おそらく閑院宮妃の二回目のご来場は、初日にご覧になれなかった実演をご覧になるためだったと思われる。なお小島正は初日の閑院宮妃のご来場が終わるとすぐに退院した。
このこけし展には、大阪の米浪庄弌、台北の中井淳など各地から多くの愛好家が集まり、工人も実演の高橋忠蔵の他、蔵王高湯の斎藤源七、米沢の西須正芳らが来場した。
8月30日夜には急遽実演を引き受けた高橋忠蔵を囲む会をこけし展同人が銀座勘兵衛(天江富弥の店)で開催した。