天江富弥

大正期から昭和期にこけしを体系的に収集した。昭和3年に〈こけし這子の話〉を刊行し、こけし、作者、産地、その系統というその後のこけし蒐集、研究活動の基本となる四要素とその枠組み(Framework)を規定して議論した。

「炉ばた」の天江富弥

〔人物〕明治32年3月22日、仙台の醸造業七代目天江勘兵衛、勢んの三男として生まれた。本名は富蔵。誕生した年は大きな酒蔵を建てた年であつたことから、蔵の字をつけて富蔵と名付けられたという。幼時、家族から 「トミや、トミや」と呼ばれて可愛がられたため、後に「富弥」を筆名とした。
大切に育てられたが、富蔵は物心つく頃から、かさこそと何かしていないと気のすまない性格で、それを見ていた祖母のとわは「笹葉さ くるんだ狐みたいな 童だごど」と笑っていたという。また、幼少の頃より母勢んに連れられて、湯治に温泉場を訪れ、木地挽き玩具には親しんでいた。
成長して市立仙台商業学校に進んだが、その頃から竹久夢二に夢 中になり、夢二と名のつ くものな らなんで も書き写していたので、富弥の字自体が夢二そっくりになったという。また夢二を通して文学にも傾倒するようになった。さらに夢二本人との交流も始まって、生涯親しく付き合った。
大正6年に東京の明治大学商科に進学、上京したところ神田連雀町に片岡平爺という人が開いていた喜雀苑という趣味の店があって、その飾り窓にポツンと一本立っていた鳴子こけしに感銘を受け、小さいころからこけしを見て育ったのに、こけしの良さをちっとも分かっていなかったと感じた。これがこけし蒐集の出発点になった。大学時代には童謡や詩の投稿に熱中し、鈴木三重吉の〈赤い鳥〉などに強い感化を受けた。大正10年明治大学卒業後、仙台でスズキヘキ (本名鈴木栄吉)と「おてんとさん社」を設立、日本で最初の童謡専門誌〈おてんとさん〉を創刊した。地方の童謡誌ではあったが野口雨情山村暮鳥藤森秀夫なども寄稿した。これは後に仙台児童倶楽部へと発展していき、仙台における児童文化啓蒙活動の先駆となった。
こけしへの傾倒は仙台に帰ってからで、仙台には三原良吉はじめ郷土玩具愛好家たちがいて、帰郷した天江富弥を取り込んだ仲間ができた。大正12年には「仙台小芥子会」を作って同好者と共に蒐集活動に明け暮れるようになった。 小芥子会の同人は菅原武平、三原良吉、小野臺蔵、天江富弥、鈴木軍治、今野定一であった。


仙台 小芥子会同人
右より 菅原武平、三原良吉、小野臺蔵、天江富弥、鈴木軍治、今野定一

やがて、こけしはじめ郷土玩具は天江の実家の部屋一杯を占領するようになり、父親の七代目勘兵衛から「若い者が子供のおもちゃナンカ買い漁って、いったい何のつもりだ」と叱責された。そこで天江富弥は家を離れて、友人が仙台の盛り場一番丁の文化横丁に新築した長屋の一店を借り、大正15年に小芥子洞という土俗玩具店を開くことになった(開店は翌昭和2年1月)。


右より 三原良吉、熊耕年、天江富弥 小芥子洞の前で

小芥子洞は三原良吉と天江富弥が共同の亭主という形で始まり、仕入れから販売までを取り仕切ったが、珍しい玩具やこけしに買い手は多く、仕入れが間に合わないので、「一人に二品以上は売らぬ」といった商いであった。久四郎や胞吉などが安価に売られていた。東北大学の中井淳、木村有香など仙台の文化人や、遠野の民俗研究者の佐々木喜善なども顧客となった。
昭和3年には〈こけし這子の話〉を刊行、天江が主にこけしおよび作者について記述し、三原良吉が木地屋関係研究、系統分類に関する記述を行った。
しかし、三原良吉は昭和3年に河北新報社に入社、しだいに仕事が忙しくなって小芥子洞を手伝えなくなり、また天江富弥自身も実家の醸造業の販路拡大などに参加するようになったので、小芥子洞の活動は日下コウの桜井玩具店に引き継がれることとなった。
昭和4年に結婚したが。その時親交のあった竹久夢二からお祝いに絹本墨筆の竹図一幅を贈られている。
天江富弥は兄安治郎と二人で、酒の販路拡大を画して東京で出て営業活動 を行い、昭和5年には秋葉原近くの末広町に卸問屋を開設、さらに 昭和8年には上野駅前のガード下に「勘兵衛酒屋」を出店した。店の片隅にこけし棚を作り陳列したという。その後、銀座、新宿、池袋店を開店 し、富弥がその経営 を担当することになった。銀座店ができた時に、こけしはその二階に移し、その座敷に在京のこけし愛好家が集まるようになった。
一方、「勘兵衛酒屋」の各店舗は、在京の知識人たちの間で人気も出て、常連 には高村光太郎・棟方志功・太宰治などの著名人も加わり、特に美大生たちに愛されたようである。

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池袋 勘兵衛酒屋

昭和9年、日本橋高島屋で万国人形博覧会が開催された。これは皇太子殿下誕生奉祝の催しであったが、この時天江富弥蔵のこけしも出品された。
銀座店近くの御木本パールにいた川口貫一郎は勘兵衛銀座店の常連となった。銀座勘兵衛に集まった愛好家が中心となって昭和14年「東京こけし会」が設立された。


東京こけし会設立メンバー(小島正以外) 於:銀座勘兵衛二階
右寄り川口貫一郎、小島正、天江富弥、田中野狐禅、斉藤栄、稲垣武雄、浅沼廣文、深沢要、加賀山昇次、牧野玩太郎、秀島孜、岡村堅

昭和14年6月に機関誌〈こけし・第一号〉が発刊された時には「東京こけし会」としての巻頭言「めごいこけし」および、天江富弥記名の「こけし道提案」を執筆した。巻頭言は有名な「めごいこけしを忘れてなろうぞ」で始まっている。「こけし道提案」の一つに「こけしは仮名で書くことにしましませう」とある。これは天江富弥の自論で、橘文策が木形子と書いたり、深沢要が古戯子と書いたりするのを極端に嫌った。

〈こけし・第一号〉

東京こけし会が主催し天江富弥が音頭を取って、昭和15年7月27日には鳴子にて参会者50余名を集めて現地大会を開催した。この鳴子大会においても議題の一つに「こけしの文字は漢字の当て字を絶対に使用せず、今日より仮名書きに改める事」があり、議事録には「一同異議なし賛成、満場一致で可決」とある。
大会議事で「通常の統一用語として”こけし”を採用する」というのはまだ分かるが、趣味人個人の使用も禁止させようというのはいささか強引な主張に思える。趣味人が”こけし”を含む雅印や堂号印を作るときに篆刻で平仮名を刻するのは俗になり易く難しい。個人的に当て字を用いるのまで制限しようというのは今日の感覚ではかなり極端であった。ただ、天江富弥にとっては、こけしは真摯に向き合うべき対象であったから、趣味道楽という都会人の遊びの対象として扱われるのを極度に嫌った可能性はある。
一方で、自分の店には小芥子洞と名付けていたのだから、天江の主張は一般名詞としてこけしには必ずひらがなの「こけし」を用いようという限定的な主張だったのかもしれない。


昭和15年7月 東京こけし会 鳴子大会

また同年翌月の8月28日より9月1日まで東京の白木屋にて、閑院若宮妃直子殿下の御台臨を仰いで「東京こけし会こけし展」を開催したが、天江富弥はその企画運営においても中心メンバーの一人であった。
こうして活躍した東京時代も戦争の激化によって勘兵衛酒屋の営業を継続するのが困難になり、天江富弥は各店を閉店して仙台に戻ることになった。東京こけし会の活動も昭和19年1月が最後となった。
戦後になって昭和23年より鳴子で始まった鳴子こけし祭(後の全国こけし祭)には会場にコレクションの一部を陳列した。また昭和25年1月に仙台三越で開催されたこけし展にはコレクションの中から選ばれたこけしを参考出品した。
昭和25年、天江富弥は天賞の酒と郷土料理を提供する店「炉ばた」を仙台で開店 、以後「炉ばたのおんちゃん」と呼ばれて贔屓の客たちから親しまれるようになった。「炉ばた」の奥の座敷にはこけしを飾ったガラス棚があり、コレクションを鑑賞することが出来た(昭和40年代)。


炉ばた店内の座敷にあったこけし棚

鳴子の全国こけし祭には毎年訪れていた。深沢要コレクションが鳴子に寄贈されてからは祭の会場には深沢コレクションの中から選ばれたこけしが並ぶようになったが、天江富弥は会場を眺めて、小島正の鉛古こけしの複製などが並んでいると「こういうものはここに並べてはいけない」と厳しい口調で語っていた。東京こけし会時代に作らせた参考複製品が古品展示に紛れて展示されたので、誤解されるのを恐れたのであろう。


鳴子の全国こけし祭り表彰式で挨拶する天江富弥

天江富弥は、「炉ばた」経営の他に「さかふね句会」、「東北郷土趣味会」、「仙台郷土句会」な ども主催した。また土井晩翠を顕彰するために晩翠会を作り、晩翠草堂の建設を推進、土井晩翠顕彰会を組織して、晩翠賞の制定にも尽力した。 この他、多くの機関誌を発行、〈こけし道〉〈さかふね〉〈仙台郷土句帖〉〈初 しぐれ〉〈炉盞〉〈郷土句帖〉などにおいて執筆活動を続けた。
昭和57年には、児童文化活動への功績が讃えられ、河北文化賞を受賞 した。

戦後も仙台でこけしに関わり続けたが、若く研究熱心だった高橋五郎の将来に期待をかけた。昭和52年には山形のしばたはじめの強い勧めがあり、また立川武雄、門脇信などの協力もあって〈こけし這子の話〉の復刻が刊行された。このとき高橋五郎も現役研究者として参加した。
昭和59年6月22日に86歳(数え年)で没したが、その10日前に病床で書いた「なんぼになっても母の夢」を記した碑が、墓所である林香院に建てられている。

天江富弥コレクションは、天江の没後高橋五郎の手に託された。その全貌は高橋五郎によって〈図譜『こけし這子』の世界〉(昭和60年6月)に収載刊行され、今日ではこの本によってこけし蒐集活動黎明期のこけしの全貌を誰でも参照することが出来るようになった。
 なお、「炉ばた」は天江富弥の没後も、同様の営業形式で続けられていたが令和2年6月末にて一旦閉店され、その後東京で飲食店を経営する会社「絶好調」によって継承されることになった。

〔参考〕

 

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