木村有香

明治33年3月1日、石川県に生まれる。実兄の木村素衛(京都帝国大学教授)は、西田哲学に精通した哲学者、教育学者。有香は、旧制第七高等学校に進学、在学中に動物学を専攻していた岸田久吉よりの依頼を先輩から引き継いでクモの採集を行い、原始的な形態を持つことから生きた化石として知られるキムラグモを発見したことでも著名である。学名にはHeptathela kimuraiと木村の名がつけられた。
東京帝国大学に進学、大学2年生からヤナギ科の植物の研究を開始した。
ヤナギ科の植物は、葉の形態の季節変異が著しく、その分類が困難であったが、様々な地域の野生のヤナギを個体識別し、季節ごとに標本を採集して同一個体から得られた標本を比較することにより、北方ヤナギ科の分類を確立するという成果を残した。


木村有香

京帝国大学大学院を卒業後、昭和3年東北帝国大学理学部植物学科助教授に就任して仙台に居を移した。このころから趣味でこけしに関心を持つようになり、天江富弥の郷玩店「小芥子洞」に頻繁に顔を出して蒐めるようになった。木村の家を訪れた鹿間時夫は、箪笥の中に高橋胞吉が何本もゴロゴロ入れてあったと思い出を語っている。
昭和15年には、こけし同好の鹿間時夫、立川武雄、島谷謹之助、鈴木清等とともに「仙臺きぼこ會」を結成し、機関誌〈きぼこ〉を三号まで発刊した。下掲はその一号に掲載された写真で、木村有香が小芥子洞で求めたと思われる高橋胞吉のうちの5本。〈きぼこ〉は非常に高踏的な雑誌であったが昭和16年5月で終わったのは惜しかった。下掲写真の右端にある輪入りのこけしは、後年鹿間時夫が木村有香から譲られたものである。〈こけし鑑賞〉172ページによると、木村は民芸の大家で、伊万里の大徳利の首と胞吉の曲線を比較鑑賞していたという。鹿間にとって初期の胞吉は、庄七と共に、憧れの対象の美女であったようだ。〈こけし辞典〉執筆時には胞吉の系統的ルーツがまだ明確でなかったので、橋本正明が「胞吉を雑系に入れよう」と言ったら鹿間時夫は「君、それはないでしょう」と憤慨したことがあった。鹿間は「私は胞吉の標準型には縁がなく、入手出来ないこけしだ」と語っていたが、鹿間にとって胞吉は最後まで手の届かぬ憧憬的なこけしであったかも知れない。

胞吉5本 〈きぼこ・1号〉 昭和15年6月、木村有香蔵

昭和27年8月20日付河北新報の「ポーズくずして」というインタビュー欄で、木村有香が取り上げられている。「昭和三年仙台に来てちょうどアサヒグラフに仙台の郷土がん具としてこけしがのっていたが、それに非常な驚きを感じたのがやみつきで-その頃三原良吉さんや天江富弥さんが文化横丁でこけし店をやっていて、またこけし会を作り、郷土の人形の展覧会をやっていた …〈中略)… ただ集めるだけでなく学問的であって、私なんかいろいろ説明してもらい得るところがありましたね」と語っている。

戦後、昭和22年に東北大学理学部生物学科教授に就任、昭和33年には東北大学理学部附属植物園の初代園長となった。この植物園(現・東北大学学術資源研究公開センター植物園)には、木村有香が尽力して集めた世界のヤナギ科植物標本木の充実したコレクションが栽培されている。昭和38年に退官したが、死の前年までこの植物園のヤナギ園で研究を続けたという。平成8年9月1日、仙台市の自宅で老衰により没、行年数え年97歳。

木村有香の収蔵したこけしは戦災で失われたと言われているが、詳細はわからない。

 

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