宮城県仙台市の出身の郷土史家。
明治30年1月22日、宮城県仙台市に生まれた。上京して早稲田大学に学び、帰郷して大正12年に天江富弥らとともに仙台小芥子会を結成、同人としてまた郷土史家という立場からその活動を支えた。
大正14年に天江富弥が小芥子洞というこけし店を開くことになった時には、三原良吉と二人が亭主と言う形であった。
昭和3年に河北新報社に入社した。昭和5年仙台郷土研究会の結成に参加した。
郷土史や民俗学に造詣深く、天江富弥の〈こけし這子の話〉は三原良吉に負うところが大きい。〈こけし這子の話〉の跋は三原良吉が執筆している。
右より 三原良吉、熊耳耕年、天江富弥 小芥子洞の前で
三原良吉は、上掲写真のころは河北新報に入社したばかりで、当時の記者の腕章を捲いている。三原良吉が河北新報社に入って小芥子洞を手伝えなくなったので、やがて小芥子洞は営業を終え、日下コウの桜井玩具店に引き継がれることとなった。
河北新報社では論説委員、出版局長などをつとめ、退職後は宮城県史、仙台市史の編修にかかわった。また宮城県文化財専門委員、仙台市文化財保護委員などを務めた。
昭和57年8月4日急性心不全のため仙台市米ヶ袋の自宅で没した、行年86歳。
著書に「二口谷の民俗」「郷土史仙台耳ぶくろ」「広瀬川の歴史と伝説」「宮城の郷土史話」「仙台七夕と盆まつり」「仙台郷土史夜話」などがある。また、広瀬源兵衛という筆名を用いたこともあった。
こけし関係では石坂洋次郎編〈東北温泉風土記〉に収められた「コケスンボコ雑考」、仙台郷土叢書「こけしの話」などがある。
民俗資料の収集と同時にこけしの蒐集も熱心に行い、戦前そのコレクションの一部は斎藤報恩会博物館に展示されていた、
主な展示品は、久四郎、五平、梅吉、盛秀太郎、常松、鈴木幸之助、久治、勘内、雅雄、胞吉、謙蔵、角治、キン、佐藤栄治、勝次、治助、新次郎、儀一郎、湯ノ沢、鶴岡等で、注目すべきものが多くあったという。天江コレクションの古作品に匹敵する重要資料であったが、戦災で惜しくも焼失した。
報恩会展示品のルポルタージュは鹿間時夫の〈こけし・人・風土〉「あの頃のこと」に詳しい。鹿間時夫はこの回想の中では、勘内、一ノ関不詳、飯坂の栄治、胞吉などを高く評価していた。
三原良吉の手元に残ったものの一部は鳴子ホテルの高橋正夫の手に渡って、一時期作並のホテルグリーングリーンのらせん階段にあったガラスケースに飾られていた。その後、鳴子ホテルの5階ケースに飾られていたこともあった。
下掲の鈴木米太郎は三原良吉旧蔵のもの。