東京こけし友の会初代会長を務めた。
千葉医科大学(現 千葉大学)法医学教室で加賀谷勇之助教授のもとで医学を学ぶ。血球抗原性に関する研究等を行い、昭和10年に医学博士号を取得する。このころ、東京松坂屋で開催されたこけし展を見て、こけしに対する興味が起こり、蒐集活動を始めた。戦前の東京こけし会に加わり、その機関誌〈こけし〉が発刊された昭和14年時点の会員19名のうちの一人であった。〈こけし・第一号〉に下記のような「こけし禮讃」を寄稿している。
『こけしは可愛い』私のこけし観はこの一言にして尽きる。私はこの愛すべきこけしをせっせっと蒐めてゐる。私がこけしを見初めたのは未だ日の浅いことであるがその愛着の熱意は日一日と深くなって行くばかりである。私の小さな書斉は机と椅子のスペースを残してぐるりと大小数百のこけしが色々とりどりのローカルを見せてゐるここは私にとつての三昧境であリ狭いながらも楽しい慰安所である。可愛いこけし達に取囲まれて読書などしてゐる私の姿を御想像願ひたい、完全にこけしの国の人となった愉悦、その得意や思ふべしである。芝居の寺小屋もどきではないが『何れを見ても山家育ち』甚だ土臭い面々ながら純朴そのものの姿とでも云ふか却ってそこにそも云はれぬ懐かしさ可憐さが溢れてゐて弥が上にも私を魅了し去るのである。兎や角の論義は第二として私は理屈抜きにこけしが好きである。私は何時迄もこの変わらぬ熱情を以てこけしを蒐め、こけしを可愛がってやりたいと思ふ、近来こけし熱が頓に旺盛となりこけしを論ずる者の多くなって来たことは御同慶至極である。こけしを愛する人達ばかりでこけしを語り合ふ為に東京こけし會が生れた
今叉こけし愛好者によってこけしを論ずべく『こけし』なる冊子が生み出されるのに何の不思議もなく当然の推侈である。その素晴らしい誕生を祝福し東京こけし會と共に健全なる成長を心から祈るものである。
その後、下関入江に外科病院を開設した。昭和17年には〈旅の趣味・第105号〉に「こけしと兵隊」という一文を寄稿している。
戦後は東京に戻り、昭和28年に東京こけし友の会が設立されたときにはその初代会長となった。友の会の例会がまだ赤坂の名和美容研究所で開催されていたころには、〈こけし手帖〉に先立つ機関誌として〈こけしの郷愁〉が発刊されていたが、その第7号は「肘折・特集」であった。それまで肘折に関するまとまった追求は行われていなかったが、加賀山昇次は勇躍現地肘折を訪ねて、調査・聞き書きを行った。まだバス道もきちんと整備されておらず、木の枝がバスのガラス窓を激しくたたく山道を登って行ったと語っていた。これが肘折のこけしと作者に関する体系的な調査の最初であり、加賀山昇次の依頼で復活した工人たちが戦後の人気産地肘折の基盤を作った。〈こけしの郷愁・第7号〉の発行は昭和29年7月であったが、後に中屋惣舜は「肘折の戦前は昭和29年まで続いていた」と言った。この時期までの肘折こけしは戦前の作風をそのまま残していたのである。
加賀山昇次の会長時代は、丁度戦後のこけし蒐集活動再開期でもあり、会の幹事や会員たちは熱意にあふれていた。昭和29年4月13~18日に東京日本橋の三越で友の会主催の「趣味のこけし展」が開催され、古品の展示や新作の即売、また鳴子の高橋盛、岡崎斉の実演もあって嘗てない大盛況であった。
なお、この「こけし展」はひきつづき神戸の三越でも昭和29年5月1日より6日まで開催された。神戸では高橋盛と高橋正吾が実演を行った。
昭和31年の年賀切手には、郷土玩具シリーズの三番手としてこけしの図案が採用された。それに対して加賀山は、〈竹とんぼ・第12号〉の「新春の年賀切手に寄せて」の中で、三番目の採用に関連して、「昨今全国を風びしているこけしの登場は遅きに失した感がないでもないが、先ず順当ということだろう。」と書いていた。
加賀山昇次は、その後昭和32年ころより日本郵船の船医を務めることになり、東京こけし友の会の会長は西田峯吉に引き継いだ。世界各国を廻って玩具や小美術品を集めたりした。音楽愛好家でレコードのコレクションにも熱意を傾けていた。
昭和50年7月15日、英国 Torbay において客死した、享年71。
〔参考〕
- 小野洸:加賀山さんを悼む〈こけし手帖・174〉(昭和50年8月)