白川久蔵(しらかわきゅうぞう:1892~1959)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤久吉
弟子:
明治25年(推定)宮城県柴田郡前川村(現在の青根)の木地師佐藤久吉、りんの三男に生まれた。父久吉は青根の丹野工場の職人であり、長兄久助、次兄子之助も木地師として知られる。また父久吉の妹ふよは弥治郎の佐藤栄治に嫁いでいたので、伝内、勘内は旧蔵の従弟にあたる。
明治36年より父久吉について木地を修業したが、まもなく父が没したので久助について習得した。明治43年19歳のとき、山形市の田崎弥蔵家具店の職人となり、1年間椅子の脚などを挽いた。
その後、肘折に移り佐藤文六のもとで五ヵ月間働き、酒田に移って高橋直広の職人を八ヵ月動めた。大正元年21歳のとき、青根へ戻り兵役除隊後、仙台の佐藤賢治の職人として約1年働いた。大正5年予備役応召、除隊後、弥治郎の小倉茂松に招かれて浅虫に移り、島津勝治工場で約3年働い
た。大正8年28歳のとき、青森県三厩の木材会社挽物研究部に移り、約4ヵ月間勤務した。渡辺求が久蔵を訪ねたのは三厩時代てあり、ここで木地の手直しをうけたという。大正8年9月18日従弟伝内に招かれて北海道へ渡り、定山渓で開業した。ここでは伊藤松三郎も働いていた。最初は久蔵が経営していたが、まもなく森田某に経営が移り、久蔵は森田の職人として働いた。ここで白川アサと結婚、婿養子となって白川姓にかわった。定山渓で約15年働いた後、昭和8年42歳で洞爺湖の土産物店坂江忠雄の職人となり、一年ほど働いた。昭和9年には登別の漆原木工所に移り、4年間職人を勤めたが、同じころ及位から来た佐勝英吉も漆原木工所で働いていた。昭和12年に漆原木工所を退職、温泉会社に勤めたが、まもなく室蘭に移って転業し、製鉄所の工員となった。昭和34年ころに室蘭市輪西町にて没した。青根時代にはこけしを作ったといわれているが、遍歴後に作ったという記録は全くない。作品は未確認であ
る。遠刈田系吉郎平系列久吉家の重要工人の一人。青根の戸籍は大正年間に焼失しており、久吉家は全員他出し姿を消しているので、久蔵の生年月日等不明な点が多い。
ここでは伊藤松三郎の二歳年長説を採用した。
久蔵は作ったこけしは未確認であるが、各地を遍歴し他系を含む多くの工人との接点があるので、各工人の経歴確認等を行うのに貴重な工人であった。