佐藤東吉(さとうとうきち:1831~1904)
系統:弥治郎系
師匠:佐藤東蔵
弟子:佐藤栄治/佐藤幸太
天保2年9月17日、宮城県刈田郡福岡村大字八宮字弥治郎の農業・木地業佐藤東蔵、きうの長男に生まれた。東吉は東蔵から木地の技術も学んでいたと思われる。東吉が育ったころ弥治郎で米を自分の田で自給できたのは東吉の家と佐藤佐吉の家二軒だけであったという。東吉は働き者で、百姓が他所から米を買うなんてとんでもないと、田を起こし、木地を挽いて身代を築いた。東吉と佐藤常治は三住で、佐藤與四郎が木地を挽いてこけしや独楽を挽くのを見て、「これはいいものだ」と自分たちも弥治郎でこけしや玩具を作り、鎌先で商うようになった。また與四郎の働きぶりに惚れ込んで、妹のつめを與四郎の嫁にした。
東吉の妻女とよは刈田郡宮村の佐藤與蔵の長女で、二人挽きロクロの綱取りもし、またこけしの描彩も行った。
ただ、東吉、とよ夫妻の男の子が生まれず、後継が無かったので、與四郎を家の跡継ぎにしようとしたが、一緒になってみるとうまくいかず、與四郎一家は三住に戻った。しかし、明治9年與四郎妻つめはすいかを食べて食あたりをし急死した。また明治12年5月22日に與四郎も弥治郎から大網に帰る途中の落馬が原因で亡くなったので、東吉は遺児の常三郎とつな、みねを弥治郎に引き取った。この常三郎が、後のこけし工人佐藤幸太である。
(東吉の遺児の名を常之進あるいは常之進友厚とする文献があるが戸籍表記は常三郎である)
一方、東吉の姉なみは横川木地師小椋栄三郎の弟小椋熊治を婿とし別家し、熊太郎とりきを生んだが、明治2年の凶作で暮らしが立たなくなり、二子を残して夫婦で北海道に渡った。そこで東吉は熊太郎、りきを引き取り養育した。熊太郎が後の佐藤栄治で、佐藤伝内、勘内の父となる。
佐藤常三郎が佐藤幸太に、佐藤熊太郎が佐藤栄治となったのは、常三郎、熊太郎ともに家督の長男であったため旧民法においては籍が抜けず、弥治郎にある家を継がせられなかったため、他家で亡くなった若者の籍をもらったことによる。
したがって熊太郎(戸籍上の佐藤栄治)を佐藤東吉の養子として家督を相続させ、佐藤熊太郎の家には佐藤太蔵が入って常三郎(戸籍上の幸太)を養子として家督を継がせるようにした(菅野新一著 「三住の木地屋」)。
東吉はこけしも作り、妻とよと夜業に絵付けを行ったという。孫の佐藤伝内には「とよのおぼこ」として祖母のこけしを思い出して作ったものがある。東吉、とよの時代は二人挽きであり、ロクロによる色模様は行われず、もっぱら手描きの花模様であった。
佐藤伝内 〔24.5cm(昭和15年8月)(西田記念館)〕 トヨノオボコ あやめ模様
明治28年4月1日から7月31日まで京都の岡崎公園で開催された第4回内国勧業博覧会に東吉は煙草入れを出品している。まだ隠居の前であるから東吉が自ら製作したものかもしれないし、あるいは自家の佐藤栄治が製作したものを家督の東吉の名で出品したものかもしれない。
第4回内国勧業博覧会出品目録 (明治28年 京都の岡崎公園)弥治郎、遠刈田からの出品
東吉は明治33年2月に隠居して家督を栄治に譲り、明治37年11月29日に亡くなった。行年74歳。
弥治郎系の栄治系列、幸太系列の祖であるが、東吉と確定できるこけしは確認されていない。
〔参考〕
- 菅野新一:三住の木地屋〈山村に生きる人々〉(昭和36年4月)(未来社)
- 橋本正明:佐藤マケの再編成を中心とした佐藤東吉の木地政策〈木でこ・66〉(昭和47年9月)(名古屋こけし会)
- 山本陽子:内国勧業博覧会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・4〉(令和2年10月)