佐藤幸太

佐藤幸太(さとうこうた:1864~1924)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤與四郎/佐藤東吉/田代寅之助/膽澤為次郎/佐藤茂吉

弟子:佐藤今三郎/佐藤慶治/佐藤味蔵/佐藤春二

〔人物〕 宮城県刈田郡三住から大網に移った木地師佐藤與四郎・つめの長男常三郎として元治元年頃ころ生まれた。幸太の幼名を常之進友厚とする聞書〈こけし手帖・17、21、36〉もあるが、戸籍表記は常三郎である。
父與四郎の家は遠刈田の佐藤吉郎平家より分かれた家系で、藩政時代には領主より扶持をもらって木地を挽いていた。そのような家であったから幸太が常之進友厚といった幼名をつけられていた可能性はある。
父與四郎はこけし、やみよ、うすこ等を盛んに挽いたという。常三郎の妹につな(明治元年2月8日生まれ)、みね(明治8年7月21日生まれ)がいた。母のつめは弥治郎の佐藤東吉の妹に当たる。東吉には男の子が無く、與四郎夫妻が夫婦養子になる話があって、弥治郎に一家で移ったが、東吉のあとは佐藤栄治が継ぐことになったので、明治2年與四郎夫妻は大網に移った。ところが明治12年5月22日父與四郎は落馬して死亡、母つめもその後一年くらいで亡くなったので、遺児の常三郎、つな、みねは東吉に引き取られて弥治郎に戻った。與四郎の死は、常三郎16歳の時であり、與四郎より木地の手ほどきは既に受けていたと思われる。
常三郎はさらに東吉について木地を学び、また明治18年7月より青根の丹野倉治の工場で田代寅之助について一人挽きを学んだ。丹野の工場には遠刈田の佐藤久吉佐藤重松、佐藤茂吉、作並から来た槻田與左衛門がいた。明治18年10月には膽澤為次郎も青根に立ち寄ったので、約一ヶ月ほど指導を受けたという。一方で、田代は事業意欲は旺盛であったが怠惰な一面があり、借金がかさんで明治19年6月に一家で夜逃げ同然の形で青根を去っていった。その後、常三郎は先輩の佐藤茂吉についてさらに木地の修業を続け明治20年に弥治郎に戻った。
常三郎が弥治郎に戻ると、佐藤東吉の跡を継いだ佐藤栄治も遠刈田の佐藤周治郎や佐藤久吉の指導を受けて一人挽きを習得した。幸太、栄治が新技術を弥治郎に伝えたことによって、多様な弥治郎の形態が発展することになる。
その当時、弥治郎には東吉のお気に入りの木挽きの佐藤太蔵がいた。太蔵は福島県伊達郡藤田町の出身で幼名を芳松といい、鎌先の鈴木屋の新宅に入っていた。戸籍表記は太蔵である。太蔵には子供がいなかったので、東吉は常三郎を太蔵の養子にして跡を継がせることを考えた。明治22年5月、東吉の計らいで常三郎は幸太と改名し、同時に刈田郡福岡村の志村太右衛門二女すく18歳を妻に迎えて、夫婦で太蔵の家に入った。一方、実家は妹のつなに養子富治郎を迎えて跡を継がせた。
改名した幸太とすくの間には今三郎、慶治、味蔵、栄太郎、はるよ、春二の五男一女が生まれたが、四男栄太郎は生後間もなく亡くなった。栄太郎以外の男子は皆木地の技術を継承した。今三郎は弥治郎に残り、慶治、味蔵は白布高湯に、春二は熱塩に転出して木地業を続けた。
幸太は弥治郎で木地業を続けて、明治28年4月1日から7月31日まで京都の岡崎公園で開催された第4回内国勧業博覧会には茶盆を出品している。


第4回内国勧業博覧会出品目録 (明治28年 京都の岡崎公園)弥治郎、遠刈田からの出品

大正13年5月5日(旧4月2日)鎌先より帰宅する途中、落馬により死亡した。行年61歳。実父與四郎、幸太と二代続けて落馬で失命したことになる。
今三郎の話によると、「父幸太の面描は実に上手で、とても真似の出来るものではなかった。母のすくも描彩をしていたが、その描彩が気に入らないときは、一本に目鼻をつけて、そっとすくの前に置いたりした。」という。強く指摘せず、温厚に接したのは、幸太が幼児より苦労して育ったからだろうと鹿間時夫は言っていた。

〔作品〕 佐藤幸太のこけしはただ一本確認されている。石井眞之助が、東北の女学校の校長に手紙を書いて、「女子生徒から古いこけしで不要になったものを集めて送ってくれ」と依頼して集まった黒こけしの中の一本に幸太のこけしは有った。このこけしは昭和30年東京こけし友の会例会(赤坂時代)の席上で、石井眞之助から鹿間時夫の手に渡った。

幸太古作を確認する佐藤今三郎 昭和33年5月 撮影:鹿間時夫
幸太古作を確認する佐藤今三郎 昭和33年5月 撮影:鹿間時夫

鹿間時夫がこれを幸太と確認したいきさつは、〈こけし手帖・21〉の「古作追求の旅」に詳しい。鹿間時夫は、昭和33年5月これを弥治郎の佐藤今三郎に見せて佐藤幸太作であるという証言を得、また翌6月に白布高湯に持参して佐藤慶治からも同様の証言を得ると同時にその復元作を作らせている。
胴は直胴でシンプル、頭頂はロクロ線のベレー模様、両鬢の後ろには墨のが描かれている。頭部をのせる胴上部の受けの形状は簡潔で古式、胴下半はロクロ模様で締めている。一人挽き時代以降の弥治郎こけしの祖形となる一本であり、資料的にも貴重な作品である。

幸太作の頭部 表情かすかに見える
幸太作の頭部 表情かすかに見える

〔20.0cm(明末大初)(箕輪新一)〕 石井眞之助、鹿間時夫旧蔵
〔20.0cm(明末大初)(箕輪新一)〕 石井眞之助、鹿間時夫旧蔵

系統〕 弥治郎系幸太系列 佐藤幸太の様式は、佐藤今三郎兄弟とその弟子達によって継承されており、幸太型の復元は佐藤慶治、佐藤春二、佐藤辰雄、佐藤慶明、高田稔雄など幸太系列の多くの工人によって継承製作されている。

〔参考〕

  • 鹿間時夫:〈こけし手帖・21〉「古作追求の旅」
  • 菅野新一:〈山村に生きる人々〉「三住の木地屋」(〈こけし手帖・36〉に再掲)
  • 橋本正明:〈木でこ・66〉佐藤マケの再編成を中心とした「佐藤東吉の木地政策」
  • 佐藤慶治による復元作
  • 山本陽子:内国勧業博覧会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・4〉(令和2年10月)

〔20.5cm(昭和33年5月)(森川桂一)〕 鹿間時夫旧蔵
佐藤慶治による復元 〔20.5cm(昭和33年5月)(森川桂一)〕 鹿間時夫旧蔵

[`evernote` not found]