横谷善作

文化5年9月11日、横谷善十郎長男として鳴子に生まれた。横谷家は鳴子三兄弟の一人大沼弥平の子孫と言われている。従来の説では「善作は16歳年少の大沼又五郎より木地を習い、木地は初代」といわれるがこれには疑問もある。玩具は作らなかったが、木地の腕は鳴子一で高野幸八の姉サトは善作のことを「鳴子の名人」と言っていたらしい。気難しい性格のため「むんちん善作」と呼ばれていた。弟子には孫の善哉、高橋定助などが知られている。
遺品として、重ね杯や茶筒、椀など多数が、鳴子の「まるぜん」に残っている。茶筒は蓋が本体ほどの長さがあり、それを本体の上に置くと、すこしカタカタと音を出しながら、やがてスーッと静かに滑り、最後にカタッとはまる。

茶筒 横谷善作(まるぜん)

また数枚を重ねた杯は、その一枚を伏せてテーブルの上に置き、底を少し押して離すと2メートルくらい飛び跳ねた。真円で気密性があり、かつ非常に薄く仕上げてあるので木地は撓んで内圧が上がっていたのである。見事な仕上がりであった。

重ね盃 横谷善作(まるぜん)

二人挽きの作品であるが、カンナも切れ、秀れた工人であったことがわかる。「まるぜん」に残されている横木の盆類などを含む多様な善作の作品を見ると鳴子漆器を支えてきた古い木地の伝統を引き継いだ工人であったように思える。
明治26年3月14日、86歳で役した。
鳴子工人の分類で、定助を善作系列として扱う案もあったが、こけしに関して善作と定助の結びつきはないので、今この分類は行なわれていない。
横谷善作がこけしを作ったかどうかは明確ではない。鳴子で最初にこけしを作ったという大沼又五郎と近い位置にあり、赤物玩具も作った可能性はある。ただし、善作が作ったというこけしは未確認である。

〔参考〕

  • 橋本正明:「明治時代の木地師たち」〈こけし手帖・270〉(令和3年1月)
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