小室萬四郎

明治14年1月24日、遠刈田の小室市之丞、しゅんの次男に生まれた。遠刈田温泉で土産店丸萬商店(明治末期創業)を設立経営した。明治42年、同業北岡商店と競って仕送り制度を導入し、工人の囲い込みを図った。
大正3年3月に上野公園で開催された大正博覧会には小室萬四郎の名義で、三つ入れ子の茶盆、茶托、莨入、碁石入等を出品しているが、これらは遠刈田の茂吉、松之進、円吉等小室工場の専属工人たちが製作したものであった。

大正3年 大正博覧会(東京上野公園で開催)

小室萬四郎は、大正6、7年に宮城県助成金による遠刈田木地細工木工養成所を開いて技術養成を行った。
大正8年刊の全国特産品製造家便覧(上巻)には木地玩具の製造家とし小室萬四郎の名が掲載されている。なお、その左に遠刈田の北國仙吉とあるのは北岡仙吉の誤記である。


全国特産品製造家便覧(上巻) 大正8年

こけしも小室萬四郎の手から各地の蒐集家へ送られたので、武井武雄著〈日本郷土玩具・東の部〉時代には小室萬四郎自身を作者と誤伝された。実際の作者はやはり茂吉、松之進、円吉たちであった。
小室萬四郎には子供がなく、長兄市之丞次男軍治郎(明治27年9月25日生)を養子とした。北岡仙吉と共に村会議員となったが、互いにライバル関係であった。
昭和37年11月14日に達刈田にて没した。行年82歳。

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