槻田與左衛門(つきたよざえもん:1860~1931)
系統:作並系, 遠刈田系
師匠:
弟子:
〔人物〕万延元年11月6日、宮城県宮城郡作並村25番地の農業槻田逸三郎、ひての三男に生まる。長兄に吉三郎、次兄に利三郎がいた。師匠は定かではないが、生家の母屋の片隅にロクロを据えて木地を挽き、こけしや玩具を作っていたという。明治17年25歳の時に青根に移って木地を挽いたが、翌明治18年に青根の丹野倉治の工場に田代寅之助が来て一人挽の技術を伝えたので、與左衛門も田代に師事して一人挽を学んだ。丹野工場では遠刈田の多くの工人が働いたので、一人挽きの新技法のもとで、いろいろな新しい製品や様式が考案された。後に遠刈田系こけしの標準となる頭の放射状の手絡、および割れ鼻はこの與左衛門が描きはじめた、また桜崩しの胴模様も槻田が始めたという〈蔵王東麓の木地業とこけし〉。下掲のように作並の菊花模様が槻田與左衛門によって青根に伝わり、その描法が崩れ桜あるいは桜崩しと呼ばれるようになったと言われている。
明治20年遠刈田の大宮傅吉妹ふくと結婚したが、ふくは明治24年3月に亡くなった。大正3年に秋保長袋の類縁槻田彦市の従弟菊五郎を養子としたがうまくいかず大正11年に離縁した。
その後再婚し、男の子供二人を得たというが二男の生後間もなく妻が亡くなった。また與左衛門自身も木地の作業中に大怪我をし、片目を失明した。以後遠刈田籠山の松川のほとりに掘立て小屋を建てて住み、旅館の下働きをして生活したという。
昭和6年6月2日遠刈田西裏23番地にて没した。行年72歳。
〔作品〕槻田與左衛門のこけしは確認されていない。ただし、與左衛門ではないかとされるこけしはある。下掲は背面に峨々と焼印が押されている作者不明のこけしである。
面描は一筆目、鼻は上端やや開いた割れ鼻、胴模様は不鮮明ながら桜崩しのようにみえる。
作並風の面描、そして桜崩しを始めたという槻田與左衛門と一致する。
高橋五郎は上掲の作を、槻田與左衛門作の可能性のあるこけしとしている。
〔伝統〕遠刈田系(ただしベースに作並系があった)
〔参考〕
- 高橋五郎:槻田与左衛門ーその生涯〈こけし手帖・242〉(昭和56年5月)
- 高橋五郎:槻田与左衛門〈仙台周辺のこけし〉(昭和58年9月)
- 高橋五郎:峨々のこけし〈癒やしの微笑み〉(平成26年9月)(河北新報出版センター)