佐藤文治(さとうぶんじ:1867~1906)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤茂吉
弟子:佐藤文平/佐藤文六
慶応3年5月27日、宮城県刈田郡遠刈田新地の佐藤文吉の長男に生まれた。明治18年1月より、義兄佐藤茂吉について一人挽きを6ヵ月修業した。明治19年弟文平に、明治25年弟文六に一人挽きを伝承した。明治23年に東京上野公園において開催された第3回内国勧業博覧会の時には数え年24歳であったが、糸巻を出品している。
〈山村に生きる人びと〉によると、佐藤文治は明治30年福島県須賀川の人から頼まれて、何十人という人を雇いドウゴイ、イツツバ、イタドリなど煙草の糧に入れる葉を集める事業を始めたが、天候不順のため失敗し、大損害を受けた。これでやけになって暴れたので、「アバレ文治」と呼ばれたこともあった。その後思い直して青根の弟文平の所で働き、新地に帰ってからも熱心に木地を続けた。弟の文六の助けもあり借金の返済も済ませることが出来た。明治35年長男丑蔵に木地を伝授したが十分教えきれず、丑蔵は叔父の文平、文六からの指導を主に受けた。
明治39年12月25日に没した。行年40歳。
〈蔵王東麓の木地業とこけし〉によると文治はこけしを多く作ったというが、残っていない。義兄茂吉からの影響にしても、父文吉からの伝承にしても、吉郎平系列のこけしを作ったであろうと想像される。