佐藤七蔵(さとうしちぞう:1853~1923)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤七右衛門/佐藤亥之松
弟子:
こけしの作者佐藤文助の祖父。
嘉永6年8月21日、宮城県刈田郡宮村遠刈田新地の木地業佐藤亥之松の五男に生まれた。父亥之松や祖父七右衛門について木地の技術を学んだ。佐藤友晴著の〈蔵王東麓の木地業とこけし〉によると、明治5年20歳から二人挽きにより修業を始め、明治18年に入村した田代寅之助について一人挽を習得したという。この時、周治郎、久吉、茂吉、吉五郎、寅治、重松が共に田代の弟子となった。
明治23年4月1日~7月31日の間、東京上野公園において開催された3回目の内国勧業博覧会には七蔵は亜鈴を出品している。木製亜鈴は明治期の重要な体育用具であった。
明治26年より甥の寅治、直治等と共に青根の小原仁平工場で職人として働いた。明治27年長男七三郎が若死した話は〈山村に生きる人びと〉に詳しい。二男七四郎、三男七五郎も幼死したので、明治30年娘のつねに婿として佐藤茂吉家の文平を迎えた。文平、つねの長男が文作、二男が文助である。七蔵はその後も自宅で文平と共に木地挽を続けた。大正2年には横川の小椋永五郎の物置を借り、木地を挽いたことがあるという。
なお、七蔵は酒好きとしても知られ、雪解け道を一升徳利をぶら下げて帰る途中に石に躓いて転んだが、右手の徳利だけは高く掲げて無事だったとか、また酩酊してよく裸踊りを披露したという話が伝えられている。
横川の山神に合祀されている鷹のお宮
右のダンベは横川時代に七蔵が納めたものという
大正12年3月29日没、行年71歳。こけしも作ったと思われるが残っていない。