佐藤寅之助(さとうとらのすけ:1903~1976)
系統:肘折系
師匠:佐藤周助
弟子:佐藤重之助/横山菊太郎
〔人物〕明治36年2月28日、山形県大蔵村肘折に生まれた。父は遠刈田出身の佐藤周助、母は大蔵村清水の佐藤カンの娘イサ。12歳のとき川崎市北見方の農家に年期奉公に出され、21歳までそこで働いた。徴兵検査で帰郷後、横山仁吉の経営する横山仁右衛門工場で、父周助の指導のもとに動力により初めて木地を挽いた。仁右衛門工場では閉鎖寸前の昭和5年まで働いた。その後は各地を出稼ぎをして歩き、仙台の弟巳之助の工場で木地を手伝ったこともある。また一時期漁船に乗って働いたこともあるという。
昭和12年ころより葉山官行(葉山において国費でおこなった造林・製材事業、官行とは政府が国費で国有地以外で造林,森林の管理,材木の保護などを行うこと。)の大蔵製板所で雑役夫として製材関係の仕事をした。葉山は肘折の南南東に位置する標高1462メートルの山で、農民の作神(農作の神)の宿る山として山岳崇拝の対象となっており、ブナ林にも恵まれていた。
このころ、頼まれて水車で臼を挽いたことがある。昭和18年から20年までは、柳淵の東北配電寒風田発電所に勤務し、内職に木地を挽いた。このころ、長男重之助および横山政五郎の長男菊太郎に木地を教えている。昭和20年に発電所をやめ、30年ころまで再び葉山官行で製材の仕事をした。その後は自家で木地挽きや山菜取り、茸取りなどに従事した。
昭和51年11月18日没、行年74歳。
〔作品〕木地玩具は横山仁右衛門工場時代に製作したという。達磨落し、汽車、ラッパなどとともにこけしも製作したという。下掲は横山工場時代の作品。周助一家の形態、巳之助ともつながる姿のこけしである。
〔19.7cm(正末昭初)(奥山庫治旧蔵)〕
〔伝統〕肘折系周助系列
〔参考〕
- 柴田長吉郎・箕輪新一:〈山形のこけし〉(山形テレビ)(昭和56年11月)