盛眞一

盛眞一(もりしんいち:1921~2013)

系統:津軽系

師匠:盛秀太郎

弟子:

〔人物〕大正10年3月18日、青森県温湯温泉の木地業盛秀太郎、スナの次男に生まれた。長男は生後すぐになくなったので、実質的に長男として扱われた。弟と女姉妹二人がいた。尋常小学校の頃から成績優秀で旧制中学に進学、商業を学んだ。中学の時に製材所で木取りを行っているとき、事故で利き腕の右腕を切断したため、隻腕となった。卒業後、稼業の一つであった下駄製作を手伝い、畑仕事も行った。昭和20年、奥瀬初江と結婚して男の子三人をもうけた。三男が後のこけし工人盛美津雄である。
昭和23年より黒石信用組合(後に弘前信用金庫と合併して東奥信用金庫)に勤務、経理および庶務の仕事を行った。昭和25年ころ肺を患い、以後5年ほど入院生活を過ごした。昭和31年頃より妻初江の弟奥瀬鉄則が秀太郎のもとに来て木地を修業するようになった。鉄則が弟子上がりをすると轆轤も空き、また眞一の体調も回復してきたので少しづつ木地挽を始めるようになった。盛秀太郎は木地挽きについてはあまり口を出さなかったが、鍛冶作業については少し指導したという。眞一の本格的な木地製作は昭和47年からである。この頃は父秀太郎の人気が高く、こけし目当てに訪問する愛好家が多くいた。秀太郎のこけし製作数は少なく、手ぶらで帰らざるを得ない人も多かったので、その人たちには眞一が有色材で挽いた無彩のこけしをお土産に渡していた。描彩を付したこけしも少数はあるという。
三男の美津雄は大学卒業後、盛秀太郎、眞一のもとで木地を学び、こけしの製作を始めた。父盛秀太郎は昭和61年7月27日に亡くなった。盛諒祐は孫にあたる。小学生の諒祐にロクロによるズグリ作りを教えたこともあった。
眞一は、口数は少ないが非常に実直な性格であったという。平成25年2月2日没、行年93歳。

盛眞一 昭和54年 撮影:中根巌

〔作品〕描彩を付したものは極めては少ない。下掲は53(歳)と記入のある自挽き、自描のこけしで非常に珍しい。


〔10.5㎝(昭和48年頃)(中根巌)〕

描彩のない木地のみの作品はある程度残されている。


〔右より 6.0cm(昭和49年8月)、11.0cm(昭和49年7月)、23.0cm(昭和49年8月)(中根巌)〕

系統〕津軽系温湯亜系

〔参考〕

  • 中根巌:盛諒祐デビューそして祖父真一のこと〈木でこ・235号〉(令和3年5月)
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