小椋五郎左衛門の子。戸籍表記吉左エ門。信州で生まれた。文政元年、父五郎左衛門とともに宮城県加美郡中新田門沢山に移り、さらにニ、三年後には秋田県雄勝郡大川目山(木地山の北北東約7km)に渡り、初右衛門系と合流した。ここで文政10年の蛭谷系氏子狩に応じ、氏子料、初穂料を納めている。「出羽羽列(州)をづち(をがち)郡大川目山 吉左衛門」は、この時に「氏子料 壱匁 初穂料 弐匁」を納めている。因みに「久米之丞子 初右衛門」も同額を納めている。
その後文政末には宇留院内朴木台へ漂移し、弘化末にさらに皆瀬村水上沢に移って初右衛門一族とともに皆瀬木地山を形成した。この間に吉左衛門の次男勇右衛門は初右衛門の養子となり吉左衛門系は初右衛門系に統合吸収されていった。吉左衛門には三人の息子がある。長男利左衛門、次男勇右衛門、三男東右衛門である。娘マサは徳右衛門と結婚して、久四郎兄弟を産んだ。また長男利左衛門の二女カヤは小椋養治と結婚して泰一郎を産んだ、下の系図でわかるように、いわゆる木地山のこけし作者はほぼ全てこの吉左衛門の血を引く工人の中から生まれている。
〔参考〕
- 菅野新一・土橋慶三・西田峯吉:〈こけしのふるさと〉未来社(昭和47年3月)
- 杉本寿:〈東北山村の聚落構造〉林曹舎(昭和32年11月)