小椋初右衛門

小椋初右衛門(おぐらはつえもん:生年不明~)

系統:木地山系

師匠:

弟子:

秋田県に異動して来て木地山を形成した初右衛門一族は代々初右衛門を名乗る者が多い。久米之丞初右衛門は飛騨より会津立岩郷木賊山に移り、文化5年頃仙台側より羽後大川目山に渡り、加美郡中新田から来た小椋吉左衛門の一族と合流した。さらに文政末になるとこのに集団はともに宇留院内に漂移している。久米之丞初右衛門はこの宇留院内朴木台で天保4年飢饉にあって死亡した。久米之丞の子初右衛門は享和2年6月3日生まれ。父より木地技術を習得した。父の死後。、弘化末には宇留院内より雄勝郡皆瀬村水上沢へ移り、皆瀬木地山を形成した。初右衛門には長女トクに吉左衛門の二男勇右衛門が婿養子となった。明治維新後の林政改革により山の特権を失い、明治21年に木地山を降りて高松村下新田に移った。明治23年10月19日没、88才。家督は勇右衛門が継いだ。勇右衛門の長男養治も通称初右衛門という。養治の代に川連大館に下った。
この初右衛門の家は𠮷左衛門系を吸収し桂沢高松木地山の岩右衛門系と共に支配的な地位についていた。こけし工人の大部分はこの初右衛門系に属する 。久太郎の家にはロクロの芯棒とともに携えて移動した木地屋文書や、初右衛門米寿の祝いに川連の蒔絵師が描いた絵姿が残されていた。 また岩右衛門が関わった所謂木地屋侮辱事件(嘉永6年)において江州小椋谷へ訴状を出した際には、その筆頭に初右衛門の名前が置かれた。

小椋家に伝わる木地屋文書

日本国中轆轤師事
従先規如有来諸役
会免除之条商売不
可有異儀者也依如件
天正十一年六月日 丹羽五郎左衛門(在判)
   江州筒井
     公文所

木地山系図 〈こけし辞典〉より

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