清水晴風編の〈うなゐの友〉はこけし図版を掲載した最初の文献として知られる。
編者清水晴風は当初〈うなゐの友〉十編を出す予定であったが、六編までで亡くなったので、版元芸艸堂山田直三郎の勧めで西澤笛畝が後を引き継ぎ完成させた。初編は明治24年10月刊、その後約10年を経て、明治35年12月に貳編、明治39年11月三編、明治41年11月四編、明治44年5月五編が出て、以下、六編大正2年6月へと続く。西澤笛畝の七編以下は大正6年5月刊からであった。
清水晴風はこの本発刊の経緯として、次のような趣旨を初編あとがきに記している。
「明治十三年の春に友人の竹内久遠が向島言問が岡にて竹馬會を催し、仲間がうち揃って集まったその席に、各地の昔から伝わった手遊びの品を集め連ね展示した。予もその席にいてその品を見たが、まさに美術とはこういうものを言うべきだろうと深く思いを起こした。今世に美術として絵画彫刻物はじめ数々あるけれども、皆それは高尚すぎて予が如きものの愛玩出来るようなものではない。ただ、このような手遊びの品こそ天然の古雅を備えていて、土にて作られるものあり、木を刻んだものあり、その國々の風土、情体を見るに足るべしと感じた。そこで諸国の手遊び品を集めようと思いたって自ら京阪、奈良その他の地方へ遊歴し、また友人が旅する折にはこれにことづけなどして蒐集を続けた。それからもう十二年を経たが、集まった数は三百点を超え、その種類も百余種となった。朝夕これを傍らにおいて、聊かの美術心を養っていたが、この春、木村氏が来てこの私の様子を見るにつけ、一人の楽しみとするよりこれを広く人々に知らせるほうがよい、よろしく梓に上して一つの冊子とすべきだという。自分にもその心があったので言われるままに拙いながら自ら筆にものして渡した。時に明治二十餘り四とせという年九月末の日、本業の余暇に。」
この料亭植半で開かれた竹馬会には、竹内久遠、清水晴風の他、仮名垣魯文、巌谷小波、都々逸坊扇歌、談州楼燕枝、林若樹、坪井正五郎、万場米吉らが集まったが、清水晴風はすっかり玩具にのめり込んで、その会場で「どうだ今日の集まりの記念にこのおもちゃを全部私にくれないか、私はこの古びた趣のあるおもちゃがすっかり気に入っちゃった。私はこれから一生懸命に日本中の玩具を集めるつもりだ。」と言ったと万場米吉は〈郷土秘玩〉で語っている。このあと10年で晴風は百余種、三百点を収集し、〈うなゐの友〉を刊行開始するに至った。
こけしの図版は〈うなゐの友・清水晴風編〉の以下に載る、
•初編 奥州一の関にて鬻ぐコケシバウコ
•貳編 南部盛岡の玩具 木製の挽物にて東京のおしゃぶりといふ玩具の類ひや
•貳編 奥州一の関の手遊ひこけし這子又おぼこといふ
•貳編 磐城双葉郡浪江町邊のコケシ這子
•五編 磐城双葉郡浪江町の玩具こけし這子
•五編 南部盛岡の玩具
•六編 岩代國飯坂製こけし這子 当地にて木人形といふ
この中で、今日現存すると思われるこけしは三本ある。
1本は、初編に紹介された一ノ関の宮本惣七で、これは、〈お茂ち屋集〉写真の甚四郎の右側に立つこけしである。花筐コレクションにあり、高橋五郎著〈高橋胞吉-人とこけし-〉(仙台郷土玩具の会・昭和61年9月6日)で写真紹介された。
2本目は、貳編の浪江町邊のコケシ這子であり、西田峯吉蔵品中にあることが〈こけし手帖第96号〉で、西田峯吉本人によって紹介された。現在は「原郷のこけし群 西田記念館」に収蔵されている。 (佐藤重松の項参照)
もう1本は、やはり花筐コレクションにある六編の飯坂佐藤栄治である。入手経路はおそらく惣七と同じであろう。
明治期のこけしを掲載した文献として貴重である。
〈うなゐの友〉は市場に出ること少なく、出ても高価であったが、近年その図版が「日本のおもちゃ-玩具絵本『うなゐの友』より-」(平成21年5月24日発行)という本にまとめられて芸艸堂より出版されたので容易に見ることが出来るようになった。