清水晴風

明治期から大正初期にかけて通称「玩具博士」と呼ばれた代表的な玩具研究家。
玩具趣味を最初に紹介した玩具画集〈うなゐの友〉の著者として知られ、その後の多くの郷土玩具愛好家たちおよびその収集趣味運動に大きな影響を与えた。〈うなゐの友〉はこけしを画像と共に紹介した最初の文献である。

清水晴楓

本名仁兵衛。嘉永4年1月10日、江戸神田旅籠町生まれた。幼名が半七でのち半次郎と改名した。生家は元禄年間から駿州(静岡県)清水で大名諸侯の人夫請負、運送を業とする草分けの旧家で代々清永仁兵衛と称した。初代仁兵衛は明暦年間に駿州清水から江戸に出て、神田筋違いで運送業を創始した。父は元次郎仁兵衛。半次郎は慶応元年15歳でその家業を継ぎ、仁兵衛を名襲名して11代目の当主となった。明治6年、孤山堂山月について俳諧を習い芳華堂晴風と号した。また芳草堂主人という俳号も持った。また、父の友人である歌川芳兼(本名竹内善次郎 俳号田蝶、梅月、本業は提灯屋 竹内久一の父)に書画を習い、安藤広重風の画をよくした。明治7年頃から各地の郷土玩具に興味を持つようになった。明治12年に旧友の竹内久一(久遠)、万場米吉、林若樹らをはじめ都々逸坊扇歌、大槻如電、淡島寒月、談州楼燕枝、幸堂得知らと童心に返って遊ぶという趣旨で「竹馬会」を結成した。のちに、巖谷小波、内田魯庵、坪井正五郎、尾佐竹猛らもこれに加わった。明治13年3月、その第二回の夕食会が向島の料亭で催された時、各人の持ち寄った日本各地の古い手玩びの品を見て、晴風はおもちゃの収集を志すようになったという。

〈うなゐの友〉初編 明治24年10月

それ以後各地を旅行して収集活動を続け、多くの数が集まったので友人木村徳太郎の勧めもあり、自ら版下を描くことで明治24年10月の〈うなゐの友〉の発刊に至った。
明治28年には父祖伝来の家業を他に譲って玩具研究一途の生活に入った。その活動については〈神田の伝説〉(神田公論社)に「爾来熱心に全国各地の代表的玩具三千五百余個六百余種を集め、玩具の児童に及ぼす影響、教育と玩具との関係、また衛生の上より見たる玩具等の研究を続けて『玩具博士』の綽名は天下に響いたのである。」と記されている。
明治29年には人類学者坪井正五郎、美術工芸家竹内久遠らと集古会を結成、明治42年には久留鳥武彦、西沢仙湖、林若樹、広瀬辰五郎(伊勢辰)らと大供会をつくり、伝統的な人形玩具の愛好運動を展開した。明治39年に上野と京都岡崎で開催された二つのこども博覧会、明治44年に東京の三越呉服店が主催した児童博覧会にも玩具を出品した。さらに三越の博覧会を機に児童教育関係学者などと東京玩具研究会を創立して玩具教育の達成に尽力した。その傍ら、画才に活かした〈うなゐの友〉の続刊、さらに晴風式絵びら(錦絵広告)を描いたり、円本〈人形百種〉の製作、あるいは江戸趣味の名ごりを惜しむ千社札展覧会、富籤供養、江戸っ子会などの諸会合を企画してその中心となった。絵びらや千社札への傾倒は書画の師竹内田蝶からの影響があったかも知れない。
大正元年9月には病気療養を兼ねて栃木県塩原温泉へ最後の玩具収集旅行を行なったが、、翌大正2年6月〈うなゐの友・六編〉の刊行を見て、7月16日に食道ガンのため死去した。行年63歳。「今の世の玩具博士の晴風も死ねば子供に帰る故郷」が辞世の一首であった。法名は泰雅院晴風日皓善男子、東京巣鴨の本妙寺に葬られた。また、同寺には清水晴風記念碑も建てられている。
なお、〈うなゐの友〉におけるこけしの掲載は以下の通りである。

  • 初編 奥州一の関にて鬻ぐコケシバウコ
  • 貳編 南部盛岡の玩具 木製の挽物にて東京のおしゃぶりといふ玩具の類ひや
  • 貳編 奥州一の関の手遊ひこけし這子又おぼこといふ
  • 貳編 磐城双葉郡浪江町邊のコケシ這子
  • 五編 磐城双葉郡浪江町の玩具こけし這子
  • 五編 南部盛岡の玩具
  • 六編 岩代國飯坂製こけし這子 当地にて木人形といふ

晴風の没後、〈うなゐの友〉は西澤笛畝によって継承され、大正13年の十編まで刊行された。

〈うなゐの友〉 右上より 初編、貮編、下段五編

なお清水晴風が亡くなった後の遺品は、西沢仙湖、林若樹、山中共古、三村清三郎竹内久一(久遠)らが集まって、晴風の知友らに適当に分配したという。幾本かのこけしはおそらく林若樹のもとへ移ったと思われる。
後に清水晴風の描いた「うなゐの友」の美濃版写生原画は昭和17年頃西銀座の古書肆「吾八」に出たようであり、その一部は山田徳兵衛の蔵に帰したという。

〔参考〕

  • 清水晴楓・西澤笛畝:〈うなゐの友〉初編~十編(明治24年~大正13年 芸艸堂)
  • 清水晴風翁小伝:清水晴風遺稿〈神田の伝説〉(大正2年 神田公論社刊)
    この小伝の中には清水晴風による次のような記述もある。
    「15歳の年(慶応元年)に家督を相続した。当時年若い身を以って七、八十人の荒くれ男を自由自在に働かせるのは容易の業ではなかった。そこで膂力の必要を感じて、16、7歳から18、9歳まで専心技を練り、20歳の頃(明治3年)には上達して米二俵位は片手で自由に差上げる呼吸を覚えた。そして力というものに興味を感じて屡々力持の興業に加はり、遂に27、8歳の頃(明治11~12年)には力持ち番附の幕の内にまで列するにいたった。其後神田昌平河屋彦右衛門という米屋で十俵の米を三度に運んで誤って負傷し、大に悟る處があって全く力持と遠ざかった。」
  • 斎藤良輔:〈郷土玩具辞典〉(昭和46年8月 東京堂出版)
  • 山口昌男:神田の玩具博士〈内田魯庵山脈〉(岩波現代文庫・245)
  • 畑野栄三監修:〈日本のおもちゃ-玩具絵本『うなゐの友』より-〉(平成21年5月 芸艸堂)
  • 林直輝 / 近松義昭 / 中村浩訳:〈おもちゃ博士・清水晴風 郷土玩具の美を発見した男の生涯〉(平成22年6月 社会評論社)
  • 大江希望:清水晴風のこと
  • 木人子閑話(23)浪江の怪
  • 木人子室 清水晴風と大野雲外
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