明治時代から昭和にかけて、本、古銭、考古物などの文物の蒐集をおこなった。また、山本東次郎を師として大蔵流の狂言を稽古し、狂歌・俳諧・書画をたしなむなど趣味人でもあった。 彼の蒐集品の中に明治期のこけしが数本あって、今はいくつかのコレクションに納まっているが、それらは林若樹旧蔵品として高い評価を受けている。
林若樹は明治8年1月16日、東京麹町に生まれた。本名は若吉。江戸幕臣の家系で将軍侍医林洞海が祖父、第二代軍医総監林研海が父である。早くに両親を失い、叔父の林董(林洞海の養子で外務大臣を務めた。御典医を務めた軍医松本良順の実弟。)に養われる。祖父の林洞海から最初の教育を受け、旧制一高に学んだが、身体が弱く、中退して東京帝国大学人類学坪井正五郎教授の研究室に出入りした。正五郎の父坪井信道と、若樹の祖父洞海は蘭学者仲間で親交があった。坪井正五郎は非常に幅広い趣味を持った人で、方々の趣味の集まりに参画していたが、林若樹が玩具に興味を持ったのは竹馬会などに出入りをしていた坪井を通してのことと思われる(斎藤良輔は〈郷土玩具辞典〉の「清水晴風」の項目で明治13年の竹馬会参加者として竹内久遠、清水晴風、万場米吉らに並べて林若樹の名も挙げているが、まだ6歳での林の参加はなかったであろう)。林若樹が玩具の蒐集活動と直接接したのは、坪井正五郎が明治29年1月に上野韻松亭の集まりからスタートさせた集古会以降で、林はこの時22歳、集古会の実質的な世話役であった。若樹はこの集古会に加わった清水晴風を通じて玩具の世界に興味を持つようになった。若樹は、集古会第41回(明治36年1月)に「内外遊戯品」(奥州一ノ関 こけし古製こけしおぼこ1個)を出品している(後掲写真の大沼甚四郎)。
明治43年からは、清水清風、西澤仙湖、久留島武彦らが作った大供会にも参加するようになった。また明治44年から大供会が開催するようになった人形逸品会(一品会)ではその幹事の一人として加わった。
このように林若樹は清水晴風と親交を結んで活動していたので、大正2年7月清水晴風が亡くなった時には西沢仙湖、山中共古、三村清三郎、竹内久一らとともに集まって、晴風の知友らにその遺物を分配する役割を負った。清水晴風の〈うなゐの友〉の原画は林若樹のもとに移ったが、幾本かのこけしもおそらく林若樹のもとへ移ったであろう。
林若樹は昭和13年7月12日に64歳でなくなり、谷中霊園にある父の墓の隣に葬られた。戒名は「天嶽院白雲若樹居士」。
林若樹の没後、その蒐集品は四散する。例えば古書の林若樹文庫は昭和13年9月の入札会で出来高4万円余であったと反町茂雄は〈蒐書家・業界・業界人〉に書いている。こけしは、〈うなゐの友〉の美濃版写生原画とともに銀座の吾八に出た。こけしは2、3の蒐集家に、〈うなゐの友〉の原画は山田徳兵衛のもとに渡った。
林若樹の手を経て今日に残るこけし(林若樹旧蔵品)は、少なくとも二本は確認されている。一本は深沢コレクション(鳴子 日本こけし館)にある大沼甚四郎(一ノ関)、もう一本は西田峯吉蒐集の浪江産古作こけし(推定:佐藤重松 福島 西田記念館)である。それぞれ明治20~30年代の貴重なこけしである。この伝佐藤重松は東大の坪井研究室にいた集古会会員大野雲外旧蔵で後に清水晴風の手を経て林若樹のもとに渡ったこけしである。
右 大沼甚四郎 (深沢コレクション 日本こけし館)
左 浪江こけし這子(西田コレクション 西田記念館)
〔参考〕