二人挽き轆轤

ににんびきろくろ。轆轤(木工ロクロ、木工旋盤)の一種。手引きロクロともいう。

二人挽きロクロの形態・機構

橘文策〈木地屋のふるさと〉(未来社・昭和38年)「轆轤の変遷」の章に詳しく、ロクロの図を掲げた小文献の一つ〈和漢三彩図絵〉の註より、下記のように説明されている。

”即ち頑丈な一個の台木の上に、前後向き合った日本の幅広い支柱を立て、それに心棒を嵌めこみ、心棒の前端に金具を取付けて、これに削るべき用材を打付ける。心棒の中央には、一筋の革紐を巻きつけ、一人がその両端を持って、左右交互に引いて、心棒を交替に廻転させると、他の一人が刃物を持って削る仕掛けになっている。”

二人がかりで挽くため、足踏みロクロの一人挽きに対し、二人挽きという。つなを持つほうを綱取り、または縄引きといい、刃物で挽く方を鉋(カンナ)取りという。〈こけし辞典〉
二人挽きは鉋取りと綱取りの二人が一心同体となり、息を合わせて作業を行う必要があるため、綱取りは妻や子ども、弟子が担当することが多かった。

〈木地屋のふるさと〉(橘文策)によると、
”このコンビは夫婦をもって最上とし、古来のしきたりともなっていたので、たまたま夫婦喧嘩をした後などは、仕事がうまくゆかないで困ったという話をきいた。”
また、木地山の小椋久四郎の綱取りを長年勤めたのは盲目の老人・荒屋敷松蔵であった。昭和8年に久四郎が亡くなった後に間もなく松蔵も亡くなったという。

久四郎と綱取りの荒屋敷松蔵(橘文策撮影)

久四郎と綱取りの荒屋敷松蔵(橘文策撮影)

ロクロの軸は槐などの堅い木を用いていたが、その後鉄製になった。

二人挽きロクロの歴史

二人挽きロクロの歴史はかなり古く、百萬塔の製作等にも用いられたと考えられる。近代(明治初期~中期)に入り、一人挽きロクロ(足踏みロクロ)が普及するまでの実に1000年以上にわたって、大まかな機構は変わらず用いられてきた。
また、足踏みロクロが普及した後もモーターロクロが普及する前は大寸物などを挽く際に利用された。

展示されている二人挽きロクロ
日本こけし館に展示されている二人挽きロクロ

橘文策は木地山を訪問した際に小椋久四郎宅で保存されていた古い二人挽きロクロを譲り受けており、その様子は〈こけしざんまい〉に掲載されている。このロクロは現在、滋賀県東近江市蛭谷町の木地師資料館に寄贈されている。

また、今晃が2014年病気療養のため大館に移転後、自作の二人挽きロクロでこけしを製作頒布したことがある。

参考

木地師のふるさと
滋賀県観光情報「木地師資料館」

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