こけし工人が使用していた轆轤(ロクロ)の一形態。
ロクロの発展は、二人挽きロクロ(手引きロクロ)から、箱根あるいは東京で開発された一人挽き(足踏みロクロ)へ進み、東北各地の木地師へは、東京本所で共に働いていた田代寅之助、膽澤為次郎によって明治17~30年代に伝えられたというのが大きな流れである。
しかし、この流れとは別に一人挽きロクロに到達した木地師たちもいる。
一人は仙台の高橋胞吉である。田代寅之助が明治17年に東北に赴いた時、最初に立ち寄ったのが仙台の胞吉のところだった。ところが胞吉はすでにダライバンを使っており、足踏みを教えるなら遠刈田へ行くようにいわれたという〈蔵王東麓の木地業とこけし〉。ダライバンはオランダ語のdraaibankで旋盤の意味である。
また、盛岡の松田清次郎とその弟子煤孫茂吉も、ハズミ車応用の足踏み旋盤を使っていた。
盛岡のハズミ車応用足踏み旋盤は、明治23年に日本鉄道が盛岡まで開通した直後に、松田清次郎と煤孫茂吉が、その盛岡車両修繕工場で、西洋のハズミ車の付いたミシン式の足踏み旋盤を見たことが契機で、それをもとに二人で工夫して開発したものだった。
おそらくその祖形となった西洋旋盤は三共製作所の工作機械の体系的な収蔵品(マシンツールコレクション)の中にある「足踏み旋盤」のようなものだったであろう。煤孫のハズミ車応用足踏みロクロ構造図は橘文策の〈木地屋のふるさと〉に掲載されている。下記の(こけし事典〉の図は橘の構造図に基づいていると思われる。
仙台の高橋胞吉のダライバンは何処からの伝承か不明であるが、すでに明治17年にダライバンを使っていたとすれば、その技術は何らかの形で仙台にまで伝わっていたのであろう。仙台までの日本鉄道開通は明治20年12月であるが、効率の高い蒸気機関には高度な旋盤技術が不可欠であったから、仙台あたりには先行してその技術が導入されていたかもしれない。
また、日露戦争に出征した青森県温湯の佐藤伊太郎も、帰郷後にミシン式の足踏みロクロを作って使用したと言われているが、これもおそらく外地あるいは軍の施設で見た西洋旋盤がヒントになっていただろう。
足踏みロクロとしては、ハズミ車の慣性力を利用できるこの方式の方が、通常の足踏みより技術的に進んでおり、利用できる力も強力になった。この慣性力を用いて、煤孫茂吉は長さ3間の鳥居を挽いたという。
また従来の往復回転のロクロと違って、ハズミ車と踏み板により一方回転を作りだせたことには非常に意味がある。一方回転によって、ネジ切りなどの精巧な細工も可能になった。
一方で重い重量のハズミ車の利用は、ロクロの軸木一本持てば飛びをおこなって、用材のある場所を転々とすることのできる従来の木地師の業態を変えさせることになる。
このように仙台や盛岡という都市部では田代、膽澤の足踏みではなく西洋旋盤にヒントを得たハズミ車付き足踏みロクロが導入されていたようである。
松田弘次の実演 東北文化財映像研究所ライブラリー映像館