手絡(てがら)は日本髪を結う際に、髷に巻きつけるなどして飾る布のことを言う。あるいは髷かけとも言う。髪型のお煙草盆(髷の間にかける)、桃割れ(髷の中に入れ込み下部を割って見せる)、唐人髷(髷の中に入れ込み上下を割ってみせる)、割れしのぶ(髷の中に入れ込み上下を割ってみせる。手絡を固定するため鹿の子留めと呼ばれる特殊な簪を使う)、結綿(島田髷の折り返し部分を手絡で結んだもの)などに用いた。
綿結(ゆいわた)の島田 (髷の折り返し部分を手絡で結んでいる)
こけしでは、遠刈田系、弥治郎系、蔵王高湯系、作並系(山形系)、肘折系で頭部に描かれる紋様を、総じて「手絡(てがら)」と呼ぶ。ただし、これは蒐集家が便宜上こうした頭部の紋様を手絡と呼んだのであって、工人が古くから手絡と称したわけではない。手絡を用いた髪型を写した紋様とも必ずしも言えない。
下図は佐藤友晴著〈蔵王東麓の木地業とこけし〉に遠刈田の描法の変化を示した図版で、原図は佐藤松之進の母おいちが描いたものという。
第1図、第2図は明治10年以前の描法、第5図、第6図は明治18年に田代寅之助により、一人挽きの足踏みロクロの技法が伝った以降の描法という。これらはいずれも蒐集家から手絡と呼ばれている描法であるが、佐藤友晴は自著の中で手絡という表現は使っていない。
この頭部模様の起源は、土人形や、仙台張子のおほこ等で頭部に描かれるいわゆる「水引手」であって、それをさらに強調し様式化したものと考えられる。第1図などは水引手の名残がまだ強く残っている。
水引手を「手絡」と呼ばれる華麗な様式に完成させたのは遠刈田であろう。作並系においては、例えば高橋胞吉の頭部描彩は、シンプルで水引としての形状がまだ残っている。おそらく、極古い手法が残ったのであろう。
作並系 高橋胞吉の手絡(シンプルな水引を大きめの描いただけの様式)
同じ作並系でも、小林吉太郎では前髪から後ろに伸びる髪が残されており、上掲のおいちの描彩第2図に近くなっている。阿部常松等によって遠刈田の二人挽き時代の描法が伝えられたのだと思もわれる。この中央の髪を残した手法は蔵王高湯系にも見ることが出来る。
この中央の黒髪が蛇の目に変われば、手絡部分は土湯系の「かせ」になる。
遠刈田が、第5図以降のように中央の髪を描くのをやめて、華やかな大振りの所謂「手絡」を完成させたのは、蔵王高湯系、山形系が分化した後のこと(明治20年代後半)だったと考えられる。
下図は、佐藤直助、菅原庄七の大きく描かれた遠刈田式手絡紋様。様式としての完成度は非常に高い。これがこけしにおける手絡紋様の典型である。
弥治郎は、足踏みロクロの技法が伝わったあと、ロクロ線を用いた所謂「ベレー帽」式の頭部紋様が主流になった。しかし、二人挽き時代は弥治郎も手描き模様であった。
飯坂の佐藤栄治は遠刈田の佐藤寅治について一人挽きを学んだが、明治23年には飯坂に転出しているので、古い弥治郎様式あるいは新手法へ移行期の遠刈田の紋様を残し得たのかもしれない。緑を加えた手絡紋様は頭頂全体に妖しく躍動していてプリミティブであり非常に古風である。
肘折へこの手絡様式を伝えたのは井上藤五郎(柿崎藤五郎)であろう。藤五郎は佐藤栄治とほぼ同じ時期に、佐藤寅治の兄周治郎について足踏みロクロの技法を学んでいる。寅治と周治郎の家は隣同士であり、佐藤栄治と井上藤五郎は当然面識があったであろう。井上藤五郎の弟子となったのは奥山運七、この運七の手絡も栄治と同様に脈動して揺れている。これはおそらく偶然ではないだろう。
同じ肘折でも佐藤周助が遠刈田を離れるのは明治28年、肘折に来るのが明治33年、おそらく遠刈田の新様式が確立した後だったであろう。下図の周助は尾形の店から出た明治34年頃の作品だが、手絡は単純ではあるがおいちの描彩第5図に近いものである。
佐藤丑蔵の弟子、湯田の高橋市太郎は、やはりおいちの描彩第5図の流れであるが、湯田という孤立した産地だったためか多分にローカライズした様式となっている。
本来は土人形や張子の水引の紋様(水引手)が、こけしに入って所謂「手絡」模様に発展し、また土湯では「かせ」に変容した。一方、鳴子ではオリジナルの「水引手」の様式を単純化はしたが基本的には残した。小寸小物やおかっぱ(黒頭)、弥治郎のベレー帽を除いて、こけしの頭部紋様の原型は概ね「水引手」である。