阿部新次郎(あべしんじろう:1893~1957)
系統:土湯系
師匠:阿部熊次郎
弟子:西山徳ニ/阿部一郎/阿部利儀
西山〔人物〕明治26年5月15日、土湯村下ノ町の木地業下の松屋阿部熊治郎、コヨの三男に生まれた。母コヨは土湯の陳野原駒吉長女。長兄は阿部治助、次兄の平治は夭折した。阿部常松、小幡末松は叔父に当たる。
明治37年12歳頃より父熊治郎について木地を修業、こけしも習った。父の熊治郎は大正8年8月に亡くなった。新次郎は父の死後、妻よりとともに川向こうに分家し、独立した。大正14年1月、長男一郎が、昭和2年に次男利儀が生まれた。昭和4年、西山徳二に木地の指導を行った。
しかし雑貨店を営み木地を挽くかたわら、本業としていた道路普請等請負の仕事が、この頃から多忙になり、昭和10年ころまで殆ど木地を挽く余裕はなかった。昭和11年6月ごろ、大阪のテルヤより注文があってこけしを製作、新次郎のこけしが頒布された。〈こけしと作者〉〈こけしの微笑〉〈鴻〉によれば、その後昭和11年より15年まで大石組の石工として働いたので、木地の仕事は制約を受けるようになった。しかしこの間も、注文に応じてある程度はこけしを挽いたことはあった。昭和14年の渡辺鴻の訪問を受けた時もこけしの製作を行っている。
昭和16年、長男一郎に木地を教えるため、木地再開。従来より比較的多量にこけしを製作した。昭和17年8月より22年まで、石工の仕事に多忙となり、この間は殆ど轆轤に向かう時間はなかった。
昭和22年春からは、石工をやめ木地専業となり、こけしや茶壷・菓子器等を挽いた。戦後のこけし製作量は400~500本程度といれている。
最後まで足踏みろくろを使用して木地を挽いた。昭和32年9月13日没、行年65歳。
〔作品〕道路普請や石工の仕事のあって、木地専業ではなかったが、西田峯吉の阿部一郎からの聞き書きによれば、一年を通じて木地挽きだけに専念したことはないし、また一年を通じて全く木地を挽かなかったという記憶もないとのことであった〈こけし手帖。158〉。製作数はともかく、この間もこけしはある程度作り続けていたと思われる。
下掲は、鹿間時夫旧蔵で阿部新次郎作か弟子の西山徳ニ作かで一時議論になった。吾八の入札会に古い蒐集家から出たものという。入札の際は徳二名義になっていたが面描の筆勢が徳二とは異なり、前髪の描法や、両鬢下端が内側に向く描法等は新次郎の筆と共通するところから、新次郎古作であろうとする説もある。
〔 17.8cm (大正初期?)(鹿間時夫旧蔵)徳二の初期の作とする説もある。
下掲7寸は〈こけし古作図譜〉〈美と系譜〉に掲載された中屋惣舜旧蔵のもの、頭が大きく大振りの面描でユニークな快作。この作一本だけでも、こけし作者としての新次郎には一定の評価を与えられる。
下掲は〈こけし這子の話〉に掲載された天江富弥旧蔵の8寸3分、〈こけし這子の話〉図版は黄色が黒く印刷されているので、胴の黄色の帯の上に描かれた赤と緑の四点模様がはっきり見えないが、実際にはこの写真で確認できるように花模様がある。
〔 25.1cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
下掲の痴娯の家旧蔵7寸1分は昭和初期の作で〈こけし這子の話〉に続く時期のもの。
〔21.4cm(昭和初期)(鈴木康郎)〕岩下庄司(痴娯の家)旧蔵
戦後、昭和22年以降もこけしを製作して店に並べていた。筆遣いはやや走らなくなっているが作風自体に大きな変化はない。
こけし製作本業だったわけではないが、時間の余裕のあるときには足踏み轆轤に向かって木地を挽き、こけしも作っていたようである。戦前のブームにも殆ど影響を受けず、また時代の流行や趣向にも影響を受けずにこけしを作ったように思われる。したがって、年代変化は大きくない。
〔伝統〕土湯系松屋系列
弟子の西山徳二は戦死、次男利儀は若くして亡くなってしまったが、長男の阿部一郎が新次郎型を継承した。
〔参考〕
- 西田峯吉:阿部新次郎と阿部一郎〈こけし手帖・158〉(昭和49年5月)
- 鈴木康郎:談話会覚書(33)阿部新次郎・西山徳ニのこけし〈こけし手帖・687〉(平成30年4月)