竹野銀次郎

竹野銀次郎(たけのぎんじろう:1880~1930)

系統:独立系

師匠:笹沼兼吉/阿部常松

弟子:竹野鉄太郎/荒木千代一

〔人物〕 明治13年鶴岡に生まる。同市大宝町で木地業を営んだが、師匠、こけし製作の有無などについて問題の多い工人である。〈こけしと作者〉には、未亡人と息子鉄太郎の話として、温海の阿部常松に師事し、仕事振りはきわめて厳密で、こけし製作に秀いで、かえで模様を好んで描いたとあり、〈こけし手帖・35〉(深沢要遺稿集)には、山形の笹沼兼吉(旧姓小林)の弟子だが、銀次郎のこけしといわれるもの(〈こけし這子の話〉に鶴岡こけしとして紹介されている作品を指す)は小林系とは思われず、秋山慶一郎も、息子の鉄太郎もこけし製作については否定的であるという趣旨の一文がある。〈鴻・6〉によれば、兼吉は壮年時代に湯野浜で木地を挽き、こけしも作ったというから、兼吉に木地を習ったとすればこのころのことであろう。大物を兼吉に習い、のち小物を常松に習ったのかもしれない。〈こけし辞典〉では「こけしは明治41年生の鉄太郎が物心つく前に作ったという妥協的な説もある」としているが、〈こけし這子の話〉の鶴岡こけしが銀次郎の物とするとそれほど古いものとは思われない。孫の竹野安治によると、銀次郎が使ったというロクロは横挽きだったという。もし本当に横挽きでこけしを挽いたのならば、銀次郎の師匠は鳴子系あたりであるという議論も出てくる。ただし安治の証言は彼の年齢からみて、それほど絶対的なものとは言えないだろう。
なお明治36年刊の〈北海道営業鑑:附・三府及横浜、神戸、愛知〉には北海道瀬棚郡会津町の木地物製造として竹野銀治郎の名がある。名前表記は銀治郎が正しく、兼吉、常松に技術を学んだ後に渡道し開業したものと思われる(山本陽子調査による)。


〈北海道営業鑑:附・三府及横浜、神戸、愛知〉(明治36年3月)

また大正元年刊の〈荘内農事改良史〉(大正元年刊)には鶴岡大宝寺の銀次郎工場の記載があり、銀次郎は明治末年に山形県鶴岡に戻ったことがわかる。


〈荘内農事改良史〉(大正元年)

弟子には息子の鉄太郎のほか、荒木千代一などがいた。また、職人としては、秋山慶一郎、平塚弥三郎などがいた。また、阿部常吉も一時見習として働いたことがあるが、これは師匠とされる常松との関係が縁となっていたかもしれない。銀次郎は昭和5年3月6日、51歳で没した。

〔作品〕 まず問題は竹野銀次郎が果たしてこけしを作ったか、作ったとして〈こけし這子の話〉の鶴岡のこけしが、その竹野銀次郎の作かという二点である。この二つの問題について確実な答えを出すことは今日となっては困難である。ただし、らっここれくしょんについては中井淳の自筆の目録が残っており、それには鶴岡 竹野銀次郎と記されていて、えじこの方には昭和3年という入手年が記入されている。らっここれくしょんの竹野銀次郎作は〈こけし這子の話〉の鶴岡こけしと全く同趣向のこけしであり、ほぼ同じ時期同じ作者のこけしである。中井淳の目録に記載された昭和3年は、天江富弥の小芥子洞でこれを求めた年であり、製作年は大正末期と見るべきだろう。
これらのこけしを竹野銀次郎ではないとする論拠もないので、ここでは竹野銀次郎として紹介しておく。面描は佐藤文六や湯ノ沢の一文こけしに相通じるところがあり、また常吉初期の物とも一脈通じる。胴には紅葉が描かれるが、後の大滝武寛の紅葉はこれを写したのかもしれない。

〔17.0cm、18.5cm(正末昭初)(高橋五郎)〕 天江富弥旧蔵
〔17.0cm、18.5cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江富弥旧蔵
〈こけし這子の話〉掲載の鶴岡のこけし

えじことこけし〔17.0cm(大正末期)(らっここれくしょん)〕
えじことこけし〔17.0cm(大正末期)(らっここれくしょん)〕

〔伝統〕 独立系。〈こけし這子の話〉では陸奥温湯の流れをくむとしている。おそらく津軽系と見たのであろう。ただし、木地の伝承や、影響関係から津軽系との接点はない。むしろ、常松との関係もあり、また笹沼兼吉との関係が重要であろう。現時点では独立系として扱うのが妥当と思われる。

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