阿部常吉(あべつねきち:1904~1991)
系統:独立系
師匠:阿部常松
弟子:阿部進矢/石塚智
〔人物〕 明治37年12月24日、山形県西田川郡温海町温海温泉の木地工人阿部常松・登喜恵の次男として生まれた。父常松は土湯出身で阿部吉弥の四男、松屋の阿部治助はその甥に当たる。父常松は明治21年15歳の頃に土湯を出て、青根、蔵王高湯で木地の腕を磨き、山形の小林倉治の家で一人挽きを指導した後、湯野浜温泉を経て温海温泉に落ち着いた。明治36年9月に父吉弥の戸籍から離れ、温海で分家独立した。
常吉は15歳より父常松について木地を習得、大正10年18歳ごろより2年ほど、鶴岡の竹野銀次郎のもとで見習いとして働いた。その後、横浜、箱根などを半月ほど見学して温海へ戻った。大正15年に父常松が没した後はそのあとをついで木地に専念し、以後生涯一貫して木地製品の製作に携わった。
弟子には弟賢吾、長男進矢のほか、地見興屋(ぢみごや)の石塚智がいる。
戦後、昭和40年代のこけしブームのころには百貨店の実演にも協力して参加し、愛好家のために多くのこけしを作った。豪放磊落で物事に拘泥しない性分であるが、一徹な工人かたぎなところもあった。
こけしのほか、木地玩具も多く作り、人気の高い工人であった。戦前会津の東山温泉で売られた東山こけしは、常吉と熱塩の佐藤春二の作であるという。
平成3年3月16日没、行年88歳。
〔作品〕 阿部常吉の作品は〈こけし這子の話〉で既に紹介されており、こけし愛好家による蒐集活動の当初から平成に入るまで製作活動を間断なく継続した数少ない工人の一人である。
父常松も大正15年9月に亡くなるまで木地業を続けていたので、大正期の温海のこけしには両者のものが混在していた可能性がある。 また常吉は忠実に常松の作風を継承していたと考えられ、その作品の判別は極めて困難である。
昭和30年代の意欲的な若手蒐集陣が集まって研究したみづき会でも、鑑別法を議論し、その結果を〈こけし研究ノート・2-1〉に整理しているが、その後に発見された大正末期の作品が加わるにつれて再び多様な見解が現れる様になっている。
おそらくは大部分が常吉の作品で、常松の作品は限定的と思われる。
下に写真で掲げた6寸5分は、高橋五郎蔵で保存も完璧、大正末期の典型となる常吉であろう。
下掲の加藤文成蒐集の2本も高橋五郎蔵とほぼ同時期の作例である。
〔右より 14.5cm、17.5cm(正末昭初)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション
下に掲げた天江コレクションは昭和2年2月入手とされており、製作時期もほぼその時期と思われる。7寸4分と大寸のこけしではないが、頭部大きくどうどうたる量感を感じさせる逸品である。
〔 22.4cm(昭和2年2月)(高橋五郎)〕 天江コレクション
昭和10年以降になると頭部は極端に円形に近づいて、面描も童顔に変わる。
〔21.5cm(昭和16年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
昭和10年以降の童顔の面描は戦後まで続くが、昭和40年代に入って都立家政のこけし店たつみが小野洸蔵の伝常松の写しを作らせて以後、正末昭初の自作の復元を継続的に行って、温海本来の古風な作風を取り戻した。
〔右より 22.5cm(昭和41年11月)小野洸蔵伝常松写し たつみ特頒、29.5cm、16.4cm(昭和46年3月) 名古屋こけし会第50回記念頒布 (橋本正明)〕
晩年まで、作品の情感は衰えなかった。下掲は最晩年の作であるが、筆の震えはあるものの常吉の持ち味は維持し続けていた。
〔16.2cm (平成元年)(沼倉孝彦)〕86歳
大きな丸い瞳を描く極めてユニークな作品で人気の高いこけしであった。長男の阿部進矢もほぼ忠実にその型を継承している。
〔系統〕 独立系。土湯を母体に、青根・蔵王高湯のこけしの多様な要素を融合させて独自の様式を完成させている。蔵王高湯系に分類される場合もあるが、蔵王高湯系の典型とは大きく離れているため〈こけし辞典〉では雑系と分類された。ここでは独立系(→系統)とする。
〔参考〕