福田良助(ふくだりょうすけ:1899~)
系統:鳴子系
師匠:大沼熊治郎
弟子:
〔人物〕 明治32年ころの生まれ(推定)。大正2年15歳ころ横手の浅利製材工場で働いていた大沼熊治郎(鳴子出身・昭和4年没)につき木地を修業。熊治郎は横木専門であったため、玩具やこけしを作らなかった。その後、熊治郎は良助をつれて鳴子へ帰る。熊治郎は上鳴子の営林局の椀工場に入ったため、良助を職人として高亀へ入れた。良助は高亀でしばらく働いた後に、遊佐雄四郎や高野竹治郎のもとでも働く。〈こけしの追求〉によれば、この鳴子時代に4寸位のこけしを作ったという。また大正6年(推定)19歳のとき、鳴子から横手へ帰り、沼田町13番地で22歳まで、土地の人を相手に日用器具を作り、こけしも少し作ったという。木地に従事した期間は短く、大正9年(推定)22歳のときには横手を離れ、秋田機関区の機関士に転業した。戦後、昭和27年に秋田に良助を訪ねて描彩を依頼した人がいる。その後、この特異な工人もこけし界から消えてしまった。没年不明。
〔作品〕 昭和12年6月発行の〈木形子展望〉第1号で、伊藤忠作氏が「最近発見のこけし」として写真紹介しているのが初出文献である。つづいて、〈こけしと作者〉にも写真掲載されている。〈こけしの追求〉によると〈木形子展望〉と〈こけしと作者〉に掲載されているこけしは同一作品としてあるが、よく似てはいるが明らかに別な作品である。こけしは「見なり聞きなり」で作ったものであるという。中屋惣舜はその特徴を「目は一筆描き、胴模様は一本の紬い茎に横菊が三輪、かるみのある筆致で描かれ、枯淡な中に斬新さが同居している。また目頭に赤くぽっちりと目張りをつけている。良助の創作か、あるいはそのころのだれかのこけしの伝承か、興味ある問題点である。」と書いている〈こけし辞典〉。
福田良助のこけしは他にらっここれくしょんにも一本ある。この入手経路は「昭和12年伊藤氏より」とあるから、〈木形子展望〉に紹介した伊藤忠作氏より頒けられたものであろう。確かに、拡大してみると目がしら(特に向かって右目)に赤い点のようなものが見える。
〔15.5cm(昭和12年)(らっここれくしょん)〕
なお、名和好子蔵品中にも同趣の描彩を施した福田良助の作品があり、〈美しきこけし―名和こけしコレクション図譜〉の366に紹介されている。このこけしがどういう経緯で入手されたものかは不明であるが、胴背には「秋田市楢山明田 昭和27年3月1日 福田良助」の書き入れがあるという。これには胴の上下にロクロ線が入っている。木地は別人で、描彩のみ良助が行ったものであろう。この作品には目がしらの赤い点はない。
〔伝統〕鳴子系直蔵系列。熊治郎は木地の師匠である。こけしは高亀か、あるいは雄四郎より習得したものと思われる。菅原修がらっここれくしょんの福田良助を丁寧に復元したことがある。また修の弟子岡本雄も令和3年より良助型を作るようになった。