佐藤兼一(さとうかねいち:1905~1981)
系統:木地山系
師匠:小椋泰一郎
弟子:佐藤秀一
〔人物〕 明治38年4月20日、秋田県川連大館八右衛門屋敷の佐藤留治、よしのの長男に生まれる。父の留治は椀挽き専門の木地師であったがこけし作者ではない。母よしのは小椋養治の長女で、小椋泰一郎の妹にあたる。
大正6年13歳より伯父の泰一郎について8年間木地を学んだ。また祖父の養治からも指導を受けた。大正14年21歳で独立、自家で木地業を続けた。昭和2年に妻利恵との間に長男秀一が生まれる。
昭和7年頃、橘文策の来訪があり、こけしの製作を始めた。
昭和12年8月31日日華事変で応召、北支で腹部に銃創を負い、昭和15年2月の除隊となった。同年5月からは軍属として満州で過ごしたが、昭和19年9月には熱河省の承徳陸軍病院で妻利恵を失った。戦後、昭和20年12月に帰国した。
帰国後は行商その他の職を転々としたが、昭和35年に川連大館で木地業を再開、こけし製作も復活した。
昭和39年に病床につき、一年ほど休業したが再開、昭和43年にふたたび倒れ、休業の後昭和45年ころに再開した。その後は体力のある時期にこけし製作を続けた。
昭和56年3月21日没、行年77歳。
右:阿部平四郎 左:佐藤兼一 昭和40年8月 撮影:露木昶
〔作品〕 極初期の昭和7年頃の作例は、〈こけしと作者〉に掲載されている。下の写真の右端がそのこけしである。橘文策は同著に、「佐藤兼一は大体泰一郎の型を取っている。胴に松竹梅を描き、鶴亀を描くが蒔絵図案の域を出ていない、近作は顔に一工夫を加えて、赤を主色とした晴れ着姿を描いているが、未だ遠しの感がする。努力を祈る。」と書いていた。
写真の松竹梅は橘文策が蒔絵図案と評したものと思われるが、稚拙ではあるが古風で、木地山の正統的な作風であることがわかる。佳品であり、貴重な作品である。
〔右より 25.0cm、19.4cm(昭和7年頃)(鈴木康郎)〕 橘文策旧蔵
戦後再開時は、〈こけし辞典〉に掲載されたような本人型を製作していたが、病からの再開後は、復元によって各種の泰一郎型や、小椋米吉型、柴田鉄蔵型、樋渡治一型などの作品も残している。
〔右より 30.3cm(昭和45年)泰一郎型、30.3cm(昭和45年)樋渡治一型(高井佐寿)〕
〔参考〕