庄司永吉

庄司永吉(しょうじえいきち:1880~1948)

系統:鳴子系

師匠:大沼岩太郎

弟子:

〔人物〕 明治13年12月3日、山形県最上郡小国村瀬見温泉の鮎獲り漁夫庄司三蔵・ハツの最初の男児としに生まれる。腹違いの兄がいたが小学校登校時に渡し船の事故で溺死、腹違いの姉は吟之助を婿に取り分家した。明治27年15歳で小学校を卒業、その年の11月に徒歩で鳴子に赴き、大沼岩太郎に就いて木地の修業を始めた。明治32年の夏ころから父三蔵の容態が悪くなり、その年の10月に亡くなったので、その頃に瀬見に戻り、瀬見で木地業を始めた。明治34、5年 ころ温泉旅館観松館の高橋権右衛門の後援を得て木工会を設立し、大正3年には出資者14、5名による合資会社としたが、収益が上がらず間もなく解散した。明治43年4月に斎藤トメと結婚、4男2女をもうけた。明治43年旧暦7月7日の大水害で家を流失した。

庄司永吉・キク夫妻
庄司永吉・キク夫妻

大正4年高橋権右衛門と相談して、秋田方面より職工を雇い、椀、鉢、盆、茶器、くけ台等を挽いて、輪島の漆器問屋に送った。このころ、遠刈田、鬼首、大館等を廻って木地挽きの技術を見て回ったこともあった。動力職人として大館からやってきた佐藤順吉は腕の立つ職人だったと語っていた。
しかし、製品は夏期のみの需要で、冬場は仕事がなく、ついに大正5年に木地業を廃業した。その後は、主に県の土木課に勤め、道路工夫として働いた。
水害で家を流された後は、借家住まいであったが、ようやく借地に自宅を構えることが出来たが、昭和3年一軒隣より出火した火災のため焼失した。
昭和14年仙台にいた山田猷人が瀬見を訪れて、庄司永吉と会い、画用紙にこけし絵を描かせたものが〈こけし・第3号〉(昭和14年10月)に木版刷りで掲載された。また、昭和15年正月刊の〈こけし・第5号〉には、山田猷人による瀬見訪問記と永吉の写真が掲載された。

〈こけし・第3號〉(昭和14年10月)に掲載された永吉のこけし絵
〈こけし・第3號〉(昭和14年10月)に掲載された永吉のこけし絵
写実的な口の描法は鳴子系では珍しい。

これが契機となって、昭和15年に鹿間時夫、深沢要が瀬見に永吉を訪ね、持参した木地に描彩を依頼した。鹿間時夫持参の木地は大沼健三郎が挽いたものであった。
翌昭和16年6月、再度瀬見を訪ねた深沢要は、庄司永吉を鳴子まで連れ出し、伊藤松三郎のロクロで永吉に木地を挽かせて、描彩をさせている。
昭和17年中風で倒れ、また昭和19年頃からは失明状態となって、以後こけしは製作していない。
昭和23年6月23日没、行年69歳。
木地生活時代は苦労をしたが、県に勤めるようになってからは比較的生活も落ち着いていたようだ。
一柳という俳名で、尾花沢の句会に参加するというようなこともあったらしい。

  • 蔭なれば日まし流れの音たかし
  • しばし身のうきをわすれて月の友
  • 思う身のこころにかかる墨衣

〈こけし手帖・62〉に鹿間時夫による庄司永吉についての詳細な調査と作品解説がある。

庄司永吉 昭和14年 山田猷人撮影
庄司永吉 昭和14年 山田猷人撮影

〔作品〕  昭和15年正月、山田猷人の瀬見探訪記が出て、その年に鹿間時夫と深沢要は瀬見を訪れ、永吉に会っている。下の写真の二本は鹿間時夫が昭和15年11月大沼健三郎の木地を持参して庄司永吉に描彩を依頼した2本、健三郎の木地なので肩が丸く高い。「達筆だが素朴可憐でやや泥臭い」と鹿間時夫は〈こけし 美と系譜〉に書いた。

〈32.0cm、19.5cm(昭和15年11月)(鹿間時夫旧蔵)木地は大沼健三郎
〈32.0cm、19.5cm(昭和15年11月)(鹿間時夫旧蔵)木地は大沼健三郎

深沢要は昭和15年に訪問して聞き書きを取った後、翌16年6月に再度瀬見を訪問し、この時は永吉を鳴子まで連れ出して、伊藤松三郎のロクロを借りて永吉に自挽きのこけしを作らせた。この時のこけしは10本前後あると言われており、鳴子の日本こけし館深沢コレクションに残る3本の他、米浪庄弌(現在は鈴木康郎ほかの所蔵)などの関西方面の蒐集家の手に渡ったと言われる。また、西田峯吉(現在は西田記念館蔵)、秀島孜(戦後名和好子コレクション)の庄司永吉も、この時のものと言う人もいる。
庄司永吉自挽きの木地は肩が扁平で低く、極めて古風である。

〔右より 12.7cm、21.5cm、18.8cm(昭和16年6月)(深沢コレクション)〕
〔右より 12.7cm、21.5cm、18.8cm(昭和16年6月)(深沢コレクション)〕

〔18.4cm(昭和16年)(鈴木康郎)〕 米浪庄弌旧蔵
〔18.4cm(昭和16年)(鈴木康郎)〕 米浪庄弌旧蔵

名和コレクションの2本や、西田峯吉蔵の永吉は、頭部がやや角張り、眉が雄渾で表情の感じはやや異なる。ただし、〈こけしの美〉で土橋慶三は名和蔵品についても、やはり「昭和16年深沢要が伊藤松三郎木地に描かせたもの」と解説している。一方、〈こけし辞典〉で鹿間時夫は、西田、名和の永吉について「木地は本人かどうかよくわからない」と書いている。肩の低さから見ると永吉の木地のようであり、姿や表情の違いを見ると、深沢のものとは時期が違うようにも思える。

〈右より 19.7cm、21.2cm(昭和16年)(名和好子旧蔵)〕
〈右より 19.7cm、21.2cm(昭和16年)(名和好子旧蔵)〕

〔右より 19.7cm、13.9cm(昭和16年)(西田記念館)〕 西田峯吉旧蔵
〔右より 19.7cm、13.9cm(昭和16年)(西田記念館)〕 西田峯吉旧蔵

下図は、瀬見の温泉旅館観松館にある庄司永吉のこけし。永吉は世話になった観松館に晩年になって何本かのこけしを献じたという。このこけし木地は肩が高く、近時の鳴子風になっており、別人木地に描彩したものであろう。
いづれにしても、庄司永吉の現存作品(他人木地に描彩したものも含めて)は、昭和15年から、中風で倒れる昭和17年くらいまでのごく限られた期間のものであり、その数も少ない。

観松館蔵の庄司永吉

観松館蔵の庄司永吉

庄司永吉は大正5年に木地を中止してから、昭和15年までこけしは作っていない。それ故、復活した時に製作したこけしは、大正5年以前、むしろ瀬見に戻る前の明治30年ころの大沼岩太郎の様式をそのまま残していたと思われる。一筆目に二筆で描く鼻は、岩太郎の家の伝統的な描法で、岩蔵にも伝わっていた手法である。
特に深沢コレクションや、米浪旧蔵(鈴木康郎蔵)の6寸は、小ぶりの楕円の頭に、扁平な肩、細身の胴で、鳴子こけしの発生期の姿を偲ばせる作品であり、表情も雅で洗練された趣がある。古鳴子の妙味を十二分に発揮した逸品である。

系統〕 鳴子系岩太郎系列 弟子はいないが、戦後になって桜井昭二が永吉型を復元し、現在では昭二の長男桜井昭寛が永吉型のこけしを作っている。

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