大沼岩太郎(おおぬまいわたろう:1841~1933)
系統:鳴子系
師匠:大沼又五郎
弟子:岡崎仁三郎/大沼甚三郎/遊佐伝五郎/大沼岩蔵/庄司永吉/大沼甚四郎/大沼平三郎/大沼要/遊佐雄四郎/大沼浅吉/大沼甚五郎/大沼竹雄
〔人物〕天保12年3月23日、鳴子大沼甚五郎、登免(とめ)の長男に生まる。母とめは、通称とめのといい大沼弥治右衛門(戸籍名・弥左衛門。大沼又五郎妻女ちやの祖父)の三女である。したがって大沼又五郎とは義理の従兄弟にあたり、又五郎について木地を修業した。岩太郎の家は、初め高橋万作の向かいにあったが、明治19年3月の大火の後に岡崎仁三郎の上手へ移った。
木地は初代である。岩太郎は「昔は大坊主・中坊主・小坊主の三種だけだった。描彩は眼は一筆描きで、胴は白木地に赤と黒、後に青色を交え菊花模様を描いた。」と語っていた〈こけしざんまい〉。
先妻は大沼利右衛門の姉(名不詳)で長男幸太郎を生むと間もなく没し、鬼首の高橋長十郎長女りそが後妻に入った。長女せい以下はりその子供である。岩太郎は終生二人挽きで、綱取りは、高橋万五郎、後妻りそ、弟甚三郎妻ときがつとめた。
戊申戦役の際には、挽き物の腕を買われて仙台に呼ばれ、伊達の配下で木の砲丸を作り、嘉賞されたという〈こけしの追求〉。玩具・小物の技術は鳴子随一であった。小物類を専門に挽き、他の人は冬期塗下挽きに転業するのに、岩太郎だけは小物を作り続けて、湯治客の入る春まで貯えていたという。ロクロの心棒に鉄棒を用いたのも岩太郎が最初という。
明治20年長女せいの婿に岩出山渋谷平吉の子浅吉が入り、養子となった。浅吉、せい夫婦はきのひ、竹治、みつの、志けよ、竹雄、正雄などの子をもうけたが、竹治は幼時に亡くなった。また長子の幸太郎も明治39年5月に亡くなったので、岩太郎は期待を孫の竹雄にかけるようになった。
弟子では岡崎仁三郎、大沼甚三郎、遊佐伝五郎、大沼岩蔵、庄司永吉、大沼甚四郎、大沼平三郎(大沼新兵衛の父)、大沼要、遊佐雄四郎、大沼浅吉、大沼甚五郎、大沼竹雄などが知られている。
明治40年ころまで二人挽きを続け、以後木地は中止した。大正初年に新屋敷(現在秀雄、秀顕の住んでいる所)に移り、時々、浅吉、竹雄の木地に描彩をした。長女せい、孫娘きのひ、志けよも描彩を手伝っていたようである。亡くなる近くまで健脚で、山道を早足で歩いていたという。「酒は飲まず、仕事は極く熱心な人だったが、どうも劇しい、ゆるみのない人でした。」と弟子の庄司永吉は語っていた。昭和8年6月11日没、行年93歳。
大沼岩太郎 「祝 大沼岩太郎 九十四齢」
戸籍上は数え年で93歳で亡くなっているのに94齢の祝いの意味は不明。あるいは戸籍表記の生年と実際の生年に差があったのかもしれない。
〔作品〕大沼岩太郎のこけしとしていろいろ議論されてきたものは幾つかあるが、いすれもはっきりした決め手となるものは少なかった。
現時点で、大沼岩太郎の可能性が最も高いと思われるものは、国府田恵一蔵18.4cmと高橋五郎蔵19.7cmの二本である。
上掲の二本は大沼岩蔵の旧作と鑑定される場合もあった。
しかし、岩蔵作と、ここに掲げた二本との違いは水引と鬢の運筆にある。岩蔵の場合は下掲右図のように①起筆、②中筆、③終筆がかなり明確に区別して描かれる。起筆は筆の先端を使って細く入り、中筆で筆圧をかけて太くし、終筆で再び筆の先端をそろえるように細くして描きながら抜いていく。この書き方は水引においても、鬢においても同様である。①起筆、②中筆、③終筆を意識して区別しているのでそれぞれで角度まで大きく変えることができる。岩蔵独特の水引では終筆の角度を前髪方向に大きく変えている。
下掲左図の国府田恵一蔵品は水引、鬢において起筆、中筆、終筆の筆法を意図的には変えておらず、頭部の球形を利用して自然に一気に筆を走らせている。一方で眼、鼻においては右の岩蔵よりむしろアクセントをつけている。この描法に関してはむしろ庄司永吉がよく継承している。
上掲右図の岩蔵は昭和14年の復活初作であるが、この筆法は明治期と言われる石井眞之助旧蔵でも同様である。筆法は臨画、臨書等によって余程の矯正をしない限り時代によって変化することはない。また前髪のうしろに二筆で描かれる髪は、岩蔵の場合向かって左側が右より奥から、より長く描かれるが、国府田蔵の場合は向かって右のほうが幾分奥から長く描かれている。筆癖および様式の細部にも差が見られるので、上掲左図の国府田蔵は岩蔵ではないであろう。
国府田蔵には、岩太郎の孫の竹雄が好んで描いた石竹模様が胴に描かれていることから見ても岩太郎とするのが最も自然と思われる。この国府田蔵は大沼秀顕によって復元された。高橋五郎蔵の19.7cmも面描は同様であり、これも岩太郎描彩の可能性が高い。この高橋五郎蔵は、桜井昭寛により復元されたことがある。
木地の形から見ると、特に国府田蔵は肩が大きく、しかも鉋溝が上に開くような形で極めて古風である。木地も岩太郎が二人挽きで挽いた可能性が高い。
下掲は深沢コレクション中の古鳴子で従来岩蔵古作とされていた。黒くなっていて面描以外の描彩を詳しく見ることが出来ないが、木地の形態や残された面描は上掲の高橋五郎蔵に近く、同時期の岩太郎の可能性が高い。桜井昭二は生前このこけしのことを「私達が岩太郎と呼んでいるもの」と言っていた。その理由として「岩蔵とは木地が違う、鉋の入れ方が違う。筆の使い方も違う。」と指摘していた。特に面描の眉の両端は下がる傾向があり、特に向かって左の眉の起筆は下方から入っている。これは岩蔵の起筆とはかなり異なり、この三本では共通している。以上を勘案すると、国府田蔵、高橋五郎蔵、深沢コレクションの三本は、岩太郎面描の可能性が高い。
〔19.4cm(年代不詳、おそらく明治期)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔伝統〕 鳴子系岩太郎系列
又五郎の弟子で鳴子系のこけしを確立した重要工人であり、岩太郎に始まるこけし工人の一群を岩太郎系列と呼ぶ。
〔参考〕
- かつて岩太郎として議論されたこけし
- 元村勲蔵4本〈きぼこ・3〉
この4本は元村勲教授が岩太郎として持っていたもの。〈きぼこ・3〉に岩太郎として掲載された。
おそらく木地は浅吉あるいは竹雄、描彩もおそらく竹雄で、眼点のはいらない岩太郎様式を再現して描いたものだったかもしれない。ただ、描彩のみ岩太郎が行ったという可能性はある。大沼秀雄、秀顕がこの写真をもとに復元作を作った。 - 子寿里庫のスケッチ
深沢要が関西の岸本彩星の子寿里庫を訪ね、そこで見た古鳴子をスケッチし、それを版画にして〈奥羽余情〉に掲載したもの。深沢要はこの古鳴子が岩太郎ではないかと考えていた。
のちにこの版画をもとに大沼秀顕が岩太郎型を作り、大阪こけし教室で頒布された。 - 丹羽義一旧蔵 志けよ
〔18.8cm(明治44年)(丹羽義一旧蔵)〕
丹羽義一旧蔵の伝岩太郎、胴の底に「盛岡、四四、一、二七」の記入がある。おそらく最初の持ち主が明治44年入手したもの。大阪こけし教室の〈教室だより・2、および5〉で丹羽義一がかなり周到に調査し、鳴子工人の意見も聞いて、岩太郎木地、大沼志けよの描彩と判定している。ただ面描の運筆は大沼岩蔵と同じである。
このこけしを見た桜井昭二は木地について「鉋溝の刃の入れ方が岩蔵と逆になっている」と言っていた。ただ岩蔵にも肩の鉋溝が上に開くように鉋を入れたものがある(国府田蔵)のでこれは時代の差かもしれない。
岩太郎あるいは岩蔵の木地で面描は岩蔵あるいは志けよかもしれない。
- 元村勲蔵4本〈きぼこ・3〉
- 橋本正明:大沼岩太郎考〈木の花・第2号〉(昭和49年8月)
- 第264夜:幻の岩太郎(1): こけし千夜一夜物語Ⅱ
- 第266夜:幻の岩太郎(2): こけし千夜一夜物語Ⅱ
- 第267夜:幻の岩太郎(3): こけし千夜一夜物語Ⅱ