大沼岩蔵

大沼岩蔵(おおぬまいわぞう:1876~1950)

系統:鳴子系

師匠:大沼岩太郎

弟子:桜井万之丞/桜井昭二/大沼甚五郎//大沼健三郎/秋山忠/藤井幸左衛門

〔人物〕  明治9年2月10日(旧暦明治 9年1月16日)、宮城県玉造郡鳴子町湯元の木地業大沼甚三郎・ときの長男として生まれる(一説に明治8年生まれともいうが戸籍上は明治9年である)。父甚三郎は大沼家の甚五郎次男で大沼岩太郎の弟に当たる。甚四郎、甚五郎、万之丞、健三郎は弟である。
基本的な木地技術は父甚三郎より指導をうけたが、小物技術は伯父岩太郎に多く習った。明治24年16歳で一人挽きロクロに上ったという(西田峯吉聞書)。この聞書は膽澤為次郎が鳴子にくる以前からすでに足踏技術が導入されていたことを示しており重要である。
明治27年19歳でイナと結婚、この年事情があって鳴子を去り、青根へ行って小原仁平の工場で職人をしたが、間もなく鳴子へ帰った。明治36年28歳のときには、鉛の藤友旅館(藤井幸左衛門)に招かれ、2年ほど岩手県鉛温泉で働いた。鉛では藤井幸左衛門に木地技術を指導したという。
明治38年30歳で鳴子へ帰り、しばらく落ちついた後に中山平の小学校校舎の一部を借りて生活することになり家族で中山平に移った。このとき、秋山忠が弟子となり、やがて大沼万之丞も修業に来た。明治41年33歳のころ、大鰐へ行ったがこのときは二、三日で帰り木地の指導は行 なわなかった。岩蔵のあと秋山耕作・大沼熊治郎・甚五郎(岩蔵の弟)が大鰐へ行った。
大鰐から帰った岩蔵は再び中山平に住居を構え、5、6年の間木地業を続けたが、大正4年40歳ころから営林署の山林監視人となり、木地業は中止した。監視人は昭和10年ころまで続けたが、この間昭和5年55歳のとき再び大鰐へ行き、一年間ほど木地を指導したことがある。このときに技術指導を受けたのは村井福太郎・島津彦三郎・長谷川辰雄などであり、小物の進んだ技術のほかにこけしの描彩法も教わったという。従来、岩蔵が大鰐へ行った年次に関し諸説があったが二回行った各年次の混同による議論であった。
〈こけし手帖・42〉によると岩蔵が川連に行ったという聞書があるが、これは大沼熊治郎との採録上の誤認であることが明らかになっている。
昭和10年60歳で営林署監視人を引退し中山平大字南原の水利組合の基本財産である山林の監視人となった。南原に必要な畑と宅地を確保し、家を建てて余暇に木地を挽きながら晩年の15年間を静かに生活した。
桜井昭二が弟子となったのは昭和20年4月より2年間である。岩蔵が深沢要の要請によりこけしを復活したのは昭和13年初めのことである。深沢要は最初には秋山忠を介して入手したようである。〈こけしの微笑〉に紹介され、水谷泰永・米浪庄弌・深沢要・鹿間時夫・西田峯吉等があい次いで岩蔵を訪れた。「蒐集家の中山平詣」とまで言われた。こけしも以後比較的多く作り鳴子駅の構内売店・富士屋・及川商店・満七屋・陸奥売店などで売られた。戦後はほとんど作らず、昭和25年8月29日中山平にて没した。行年75歳。
岩蔵は、あまり金銭のことに気を使わず、自分の気分のままに趣味に徹し、金を使ってこけしを作らせようとする趣味家を非常に嫌った。技術には相当な自信があり自ら製品を売りこむようなことはしなかった反面、仕土げには神経質で繊細な仕事をしたといわれる。鹿間時夫は「会って話してみると神経質な人で、話の反応が頗る早い。談がこけしや木地のことになるとたちまち熱中して声高になった。〈こけし鑑賞〉」と書いている。

描彩する大沼岩蔵
描彩する大沼岩蔵

木取りをする大沼岩蔵
木取りをする大沼岩蔵

大沼岩蔵
大沼岩蔵

〔作品〕  「昭和13年に深沢要が中山平を訪れて、こけしの復活を要請する以前のものは確認されていない」と〈こけし辞典〉には書いた。しかし明治期と思われる黒くなった古品の中に大沼岩蔵と思われるものは何本かあり、今ではそれらが復活前の岩蔵作として議論されるようになった。
下掲写真の深沢コレクションの一本は〈こけし鑑賞〉88ページの古鳴子4本のうち右端に掲載されたもの。桜井昭二が「深沢コレクション中の私たちが岩太郎と称しているもの」と言ったこけしである。このこけしを〈こけし手帖・618〉で高橋五郎は岩蔵古作と推定した。

〔19.4cm(年代不詳、おそらく明治期)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔19.4cm(年代不詳、おそらく明治期)(日本こけし館)〕

下掲は加美郡上猪塚の旧家から出たもの、上掲の深沢コレクション蔵品とほぼ同様の形態で、寸法もほぼ同じである。面描も極めてよく似ている。〈こけし手帖・618〉で高橋五郎はこのこけしも岩蔵古作と判定し、秋山忠や桜井万之丞が中山平に修業に来ていた明治30年代の作と推定している。
ただ、胴模様は岩蔵としては異色であり、三筆で描かれる両鬢のそれぞれの筆も同じ寸法であることから岩蔵とは違うという見解がある。岩蔵の鬢は一般に内側が長く、外側に行くほど短く描かれる。運筆から見ると岩太郎の可能性がむしろ高い。
上掲の深沢コレクションとこの高橋蔵品の作者について結論は出せないが、以下のいずれかと考えられる。
① 大沼岩太郎
② 大沼岩蔵
③ 岩太郎系列の他の作者

〔19.7cm(明治30年代)(高橋五郎)〕
〔19.7cm(明治30年代)(高橋五郎)〕

下掲は昭和初年に西尾の女学校校長時代の石井眞之助が東北の女学校校長宛に「生徒が昔遊んで、いらなくなったこけしを集めて送って欲しい」と頼んで手に入れた古こけしの中の一本。この9寸のこけしは面描、胴模様から岩蔵に間違いないであろう。岩蔵は大正4年に営林署の山林監視人となり、木地業から離れたので、それ以前の作と思われる。このこけしをもとに桜井昭二が岩蔵型を作ったことがあり、昭和55年1月東京の備後屋で開催された「古作こけしと写し展」で頒布された。

〔27.3cm(明治末期)(石井眞之助旧蔵)〕
〔27.3cm(明治期)(石井眞之助旧蔵)〕

下掲は丹羽義一旧蔵の伝岩太郎、胴の底に「盛岡、四四、一、二七」の記入がある。おそらく最初の持ち主が明治44年入手したものであろう。〈こけし古作図譜〉〈木の花・2〉では岩太郎で紹介された。〈こけし手帖・618〉で高橋五郎はこのこけしも岩蔵作かとしている。
このこけしについては大阪こけし教室の〈教室だより・2、および5〉で丹羽義一がかなり周到に調査し、鳴子工人の意見も聞いて、岩太郎木地、大沼志けよの描彩と判定している。志けよは岩太郎の孫で明治27年2月7日生まれ、このこけしが明治44年に作られたとすれば数え年で18歳(満16歳)の描彩でかなりの若描きということになる。なおこのこけしの胴のカンナ溝の刃の入れ方は岩蔵とは逆になっていると桜井昭二は語っていた。
両鬢が外側に行くほど長く描かれるのは甚四郎の特徴であり、この丹羽旧蔵にもその特徴がある。岩蔵の鬢は内側に行くほど長く描かれ、このこけしとは逆である。むしろ甚四郎の可能性も強い様に思われる。甚四郎は明治末年には岩手県鉛で働いていた。盛岡からの湯客に買われていったとしても不思議ではない。
作者は次のいずれかと考えられる。
① 大沼岩太郎木地、志けよ描彩
② 大沼甚四郎
③ 大沼岩蔵

〔18.8cm(明治44年)(丹羽儀一旧蔵)〕
〔18.8cm(明治44年)(丹羽義一旧蔵)〕

一応岩蔵古作の可能性のあるこけしとして以上を紹介したが、大沼岩太郎の項目で議論されている通り、上掲の深沢、高橋蔵品は岩蔵ではなく岩太郎の可能性が高い。上掲4本のうちで現時点で確実に岩蔵と判定できるのは石井旧蔵9寸のみであろう。

以下の作品は昭和13年に深沢要の依頼による復活以降のもの。下掲写真はその復活初作の二本である。頭は大振りで量感があり豊麗な魅力をたたえた作風であった。この岩蔵の復活は、いままで見たことのない新しい鳴子こけしの出現として、こけし界に大きな衝撃を与えた。

〔右より 30.3cm、22.7cm(昭和13年)(深沢コレクション)〕
〔右より 30.3cm、22.7cm(昭和13年)(深沢コレクション)〕


〔 15.6cm(昭和13年)(国府田恵一)〕

下掲写真は有名な鹿間時夫旧蔵の尺1寸1分。この豊かな頭部の中央にまとめられた情感のある面描のスタイルが、後の岩蔵型こけしの典型となった。鹿間時夫は〈こけし鑑賞〉に「昭和14年11月西銀座の吾八を訪ねたとき、ひょっくり深沢氏のもってきた尺1寸1分の岩蔵をショウウィンドに見つけ、有無を言わせず即刻買った」「当時10円の価格とその購入者に対して、在京郷玩界に批判の声も出たと聞いた」と書いている。購入時期に基づき製作年を昭和14年としているが、深沢要の入手はあるいは初作と同時期の昭和13年かも知れない。
岩蔵の復活後の作品としては昭和13年から14年までのものに見るべきものが多い。

〔33.6cm (昭和14年)(鹿間時夫旧蔵)〕
〔33.6cm (昭和14年)(鹿間時夫旧蔵)〕

下掲写真は昭和15年初期のもの、目には眼点が加わり、肩にはウテラカシ(ビリカンナ)の技法が加えられている。また花模様の一つには紫色も使われている。しかし、緑のロクロ線は加えられていない。表情可憐であり、保存も極美、掌中で愛玩すべきこけしである。


〔 15.1cm(昭和15年)(河野武寛)〕

下掲写真も昭和15年のもの、バランスは整っているが、胴のロクロ線には緑が加えられている。

〔22.5cm(昭和15年)(橋本正明)〕
〔22.5cm(昭和15年)(橋本正明)〕

昭和15年後半になると頭が胴と比較して小さくなり描彩の筆の線も細く繊細になる。鹿間時夫はこの時期の作風を「歌麿調」とか「豊国調」と言った。何代目の豊国をさしているのかわからないが、鈴木春信など初期の時代から下がって、やや退廃の気分が現れてくる作風を言っていたのだろう。

〔20.0cm(昭和16年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔20.0cm(昭和15年後半)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

昭和13年の復活以降の年代変化は比較的はっきりしていて、〈こけし辞典〉では下の図表のような鑑別法を示している。
眼点のあるなしに関しては、昭和13年のものには眼点の無いものが多い。〈こけしの微笑〉の扉写真に載ったものは昭和13年作であるが例外的に眼点が入っている。
一方、昭和14年作については眼点のあるものが多い。昭和15年以降は大部分が眼点を入れている。

岩蔵変化
〈こけし辞典〉による年代変化(昭和13年の復活以降)

岩蔵の作風は、弟たちの大沼甚四郎、桜井万之丞、大沼健三郎へと伝わり、またその子弟に継承されて、鳴子系の大きな系列を形づくってきた。特に桜井昭二は戦後の第2次こけしブームの時期に岩蔵型を完成させ、その長男昭寛は現代の感覚で岩蔵の魅力の新たな展開を追求している。

系統〕 鳴子系岩太郎系列

〔参考〕 岩蔵に関する文献としては、最初に名前を紹介した〈木形子異報・4〉、最初にこけしを写真紹介した〈こけしの微笑〉、周到な聞書きを収めた〈鳴子・こけし・工人〉のほかに、〈こけし手帖・5〉の岩蔵特集号、岩蔵に関する研究を発表した〈こけし手帖・42〉(西田峯吉)などがある。

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