丹野勝次

明治25年熊本県出身。青森工業高校卒業後丹野家へ夫婦養子となる(妻女は青森県出身)。大正12年鳴子の木地講習所の講師として秋田県から転任、大沼新兵衛が助手としてついた。その後鳴子の木地講習所が廃止となり仙台の木地講習所に移ることが内定していたが事情があって宮城を離れた(仙台の木地講習所へは丹野の代わりに新兵衛が赴いた)。その後は自営業・東京市水道局・蝋燭工場・富士真珠と職を変えた。富士真珠を定年退職した後、昭和35年に三島市へ家を建て余生を送ったが、昭和56年6月7日に亡くなった。なお鳴子の後藤希三、岸正男は鳴子木地講習所時代の生徒である。丹野勝次自身はこけし作者ではない。

丹野勝次

丹野勝次

 

 

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