後藤希三(ごとうきぞう:1908~2000)
系統:鳴子系
師匠:丹野勝治/大沼竹雄
弟子:後藤皓/中鉢君雄/上野義則
〔人物〕 明治41年7月19日、宮城県玉造郡鳴子町の後藤久米治郎・しをの二男に生まる。幼少のころから大沼新兵衛の家で育ったため、戦前は大沼希三として知られていた。鳴子小学校を卒業後、鳴子木地講習所(宮城県工業講習所)に入り、木地講師丹野勝次について横木挽きを2年間学んだ。この時、大沼新兵衛が講習所で丹野勝次の助手をしていたのでその関係があったかも知れない。
大正13年17歳のとき、上鳴子の物産会社に入り、大沼竹雄、高橋盛とともに大正14年まで働いた。その後、秋山忠の工場に2年勤め、さらに岡崎斉吉工場の職人となった。昭和10年に長男の皓が生まれた。昭和12年から13年まで応召により中支に赴き、帰還後の昭和15年に自宅にロクロを据えて本格的にこけしの製作を始めた。しかし昭和16年に再び応召となり南方に渡って、昭和22年に帰還するまで二回目の軍隊生活を送った。斉吉工場の職人は昭和25年ころまで続けた。その後独立して鳴子新屋敷の山道に居を構えてこけし製作を続けた。弟子には、長男の後藤皓の他に、中鉢君雄、斎藤貞雄、早坂勝也、上野義則がいた。
平成12年7月30日没、行年93歳。
〔作品〕 昭和7年に深沢要の訪問を受けたと話していたが、本格的な製作は中支の軍隊生活から戻った昭和13年以降であろう。昭和16年には再び応召を受け、復員は昭和22年であるから、戦前のこけしは昭和13年から16年までの限られた時期である。初出の文献は〈こけしと作者〉、下掲の深沢コレクションのものと同種のものが紹介されている。橘文策は「東北らしい鄙びた描彩のこけし」と評していた。胴の菊模様など、まだ書き慣れていない直線的な筆法である。
〔14.5cm(昭和13年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
下掲の昭和14年作は〈こけし辞典〉に掲載したもの。初期の蕪雑さを残しながらおおぶりかつ大胆な描彩で、希三としては十分見ごたえのある快作である。
昭和15年頃になると格段に手馴れた筆法になる。〈古計志加々美〉は下掲の西田コレクションと同種の二本を図版に載せて、「初めは頗る蕪雑であったが、その後一、二年の間に見違えるほど変わってしまった。その変化に影響を与えた工人こそ故大沼竹雄である。」と解説を付している。希三が「こけしは大沼竹雄に習った」と語ったのは、この時期のことであろう。鳴子の正統的な作風で、古風な味わいのある佳品であった。
〔21.2cm(昭和15年)(西田記念館)〕 西田コレクション
戦後は盛んにこけしの製作を行い、昭和31年の美術出版社〈こけし〉、昭和33年〈こけしガイド〉の時期から鳴子の中堅作者として紹介された。
戦後のこけしは、目じりの両端が下がり、やや甘い作風、〈こけしガイド〉では「伏目がちな腺病質なおぼこ」と評された。
高橋武蔵・高橋盛・岡崎斉・桜井万之丞といった戦後の鳴子を支えた古老が亡くなった後は、鳴子の長老として若い世代を牽引する役割を果たした。
〔系統〕 鳴子系 木地は丹野勝次から習っているが、丹野からのこけしの継承はない。育った環境からは大沼新兵衛に近いが、こけしの伝承があったとは思えない。大沼竹雄や岡崎斉吉などのこけしをもとに自分の型を完成させたものと思われる。
〔参考〕
- こけし千夜一夜 第106夜:鳴子の競作(後藤希三)