嶋津誠一

嶋津誠一(しまづせいいち:1930~)

系統:津軽系

師匠:嶋津彦三郎

弟子:嶋津誠

〔人物〕 昭和5年11月4日、青森県南津軽郡蔵舘町の木地業嶋津彦三郎の長男として生まれる。署名に島津と書くことも多いが、嶋津が正しい。昭和22年3月弘前工業高校卒業後、父の彦三郎について木地の修業を始めた。主にづぐり(雪上で回す津軽地方の独楽)、野球のバット。こけしの木地下を作った。
昭和20年代には木工所は大日如来(大円寺)の前にあったという。
昭和32年4月弘前市薬師堂農業白鳥半三郎長女幸子(こうこ)と結婚した。幸子との間に純子、誠、香の一男二女が生まれた。

嶋津木工品製作所
嶋津木工品製作所(平成26年5月20日)

昭和35年頃には嶋津木工品製作所の経営を任せられ職人の新山久一、入間誠吾らと引き続き大鰐町蔵舘字宮本でロクロを回した。数年して川端にあった村井福太郎の作業場が水害で使用不能になった関係で、福太郎も嶋津木工所のロクロを借りるようになった。この時期、福太郎からは茄子の茶入れの挽き方を教えられたという。それまでこけしは木地のみであったが昭和39年川上克剛の奨めにより一時的に描彩を始めた。
昭和44年彦三郎の死後も引き続き木工所を経営しているが、昭和48年に久一が、平成9年に誠吾が辞めてからは、一人で木工所を守っている。他に須藤、古川という職人もいたがこけしは製作していない。
こけしの木地はあぐらをかいて下からカンナ棒を握って挽くが、横木用のロクロでは立って向う姿勢で挽き、製品としては津軽塗の塗り下となる盆などを挽く。盆などの用材を爪ではなく真空状態にして吸着できる特殊なロクロも持っている。
温湯とは形が異なる大鰐のづぐりも作り、回すための縄も自分で撚る。
平成27年8月4日正午頃、嶋津誠一の自宅兼工房で火災発生、隣接する家屋等4棟全焼、10棟に被害が出た。誠一も腕に火傷を負った。

嶋津誠一(平成22年9月)
嶋津誠一(平成22年9月)

嶋津誠一
嶋津誠一(平成26年5月20日)

〔作品〕 川上克剛の奨めで昭和39年に作られたものは、目のつぶらな佐々木邸子風の描彩だった。妻女幸子の描彩であったかもしれない。その後数年は木地のみで描くことが無かったが、昭和43年収集家の箕輪新一、橋本正明の訪問により刺激を受け、一連の正末昭初の彦三郎復元を行った。
彦三郎死後、誠一名義によるあやめの描かれたこけしが作られているが、妻の幸子や第三者が描彩したのものである。娘の純子も嫁に行くまでは描彩をした。その後は、あやめ、だるま、ねぷた絵のこけしやだるまは幸子が描彩し、彦三郎型、彦作型などは誠一が描彩してグロ味の強い味を出している。他に描彩者はいない。嶋津幸子は令和3年4月6日に亡くなった。
津軽は、描彩別人でも木地を挽いた者を作者名義とする慣行があるが、おそらくそれを踏襲する最後の工人になる。

〔右より 16.2cm(昭和43年8月)、24.5cm、31.2cm(昭和43年10月)、20.8cm、17.5cm(昭和43年12月)(橋本正明)〕 左2本はこけし夢名会頒布品
〔右より 16.2cm(昭和43年8月)、24.5cm、31.2cm(昭和43年10月)、20.8cm、17.5cm(昭和43年12月)(橋本正明)〕誠一本人の描彩、 左2本はこけし夢名会頒布品

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〔右より9.3cm(平成23年10月)、9.4cm(平成22年9月)、18.1cm(平成21年6月)、18.6cm(平成20年6月)(庄子勝徳)〕

嶋津誠一
〔右より18.5cm、15cm、18.5cm、18.5cm(平成26年)(山藤輝之)〕

〔伝統〕 津軽系温湯亜系嶋津家。
後継者に息子の誠がおり、一時期こけしも作った 誠のこけしは平成21年12月に伊勢こけし会で頒布された。

〔参考〕

  • 橋本正明:動き出した大鰐〈こけし手帖・95〉(昭和44年2月)

 

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