阿部広史

阿部広史(あべひろし:1898~1984)

系統:土湯系

師匠:阿部金蔵

弟子:阿部友寿/阿部計英/高橋賢三

〔人物〕 明治31年8月18日土湯の上ノ町16 阿部金蔵・ミヱの長男に生まれる。戸籍表記は廣史。金蔵の家は、上の松屋と呼ばれ旅籠を本業としていたが、明治後期には木地と炭焼きを専業とするようになっていた。広史は大正3年17歳ころから父金蔵について木地を修業し、父の仕事を助けて働くようになった。 こけしの製作は大正末年より始めた。
昭和6年に橘文策が土湯を訪問した時、金蔵は既に中風で作れず、広史に会ってそのこけしを求めている。〈木形子談叢〉でこけしの写真とともに紹介された。
昭和7年6月父金蔵が他界、このころから木地を離れ、炭焼業に専念するようになった。時にこけしを作ることもあったがその数は少ない。
昭和16年7月川口貫一郎主宰の東京こけし会より、8、6、4寸を一組として頒布、また昭和17年10月には東京のたつみより古型8寸を頒布、こうした頒布を機にこけしの製作がだんだん増えていった。戦後、兵役から戻った長男の友寿が極く一時期こけしを作ったことがあった。昭和23年頃に炭焼きを完全にやめて木地専業となった。
昭和29年の土湯の大火で焼け出されたが、その復興を機に足踏みロクロから動力ロクロに切り替えた。このとき、三男計英が木地の修業を始めて、家業を手伝うようになった。
土湯高定商店の高橋賢三に木地の手ほどきをしたことがある。
戦後の土湯こけし製作は、この阿部広史と佐藤佐志馬の二人が引っ張っていた時期がかなりの期間続いた。
昭和59年11月26日没、行年87歳。


阿部広史 昭和16年10月 撮影:田中純一郎

阿部広史
阿部広史

〔作品〕 金蔵は昭和7年まで生きていたが、晩年は中風でほとんど作らなかったというから、昭和4、5年以降の金蔵名義には広史の作がかなり混じっている。
広史名義のこけしの年代変化は〈こけし 美と系譜〉113図に、大正期から昭和31年までの7本が並んでおり、この期間の作品の製作年代は大体見当がつく。ただその上限が本当に大正期まで引き上げ得るかは議論がある。〈こけし辞典〉では「広史の初作は一説によれば昭和3年よりというが、初期の作品群を比較した結果、大正末期の作品と思われる。」と書いている。しかし、その同じ鹿間蔵5寸7分(下の単色写真17.4cm)を、〈美と系譜〉では大正末期、〈こけし辞典〉では昭和初期にするなどその判断は必ずしも固定していない。
時期が大正末期か昭和初期かは別にして、現存の古い広史は、頭が大きく、胴は膨らみが少なく、直線的に細い。この傾向は昭和6年の橘文策の土湯訪問の頃まで続く。こうした初期の広史に対して、〈こけし 美と系譜〉では「眼細く紫蛇の目に胴も細く、情味の濃い作。寡作家の金蔵よりもうまかったかもしれない。」と高い評価を与えている。

〔17.4cm (昭和初期)(鹿間時夫旧蔵)〕
〔17.4cm (正末昭初)(鹿間時夫旧蔵)〕

〔22.5cm(昭和5年頃)(北村育夫)〕 橘文策旧蔵
〔22.5cm(昭和初期)(北村育夫)〕 橘文策旧蔵

昭和6年から7、8年にかけて、頭の大きさと胴の太さの差は徐々に少なくなっていく。
下の写真に示すのは昭和8年頃といわれるもの。頭は十分大きいが、胴もやや膨らみ胴下部はかなり太くなっている。
前髪がやや装飾的になるが、頭の蛇の目は紫、胴の色彩や描法も、初期のものとほとんど同じである。

〔27.8cm(昭和8年)(橋本正明)〕
〔27.8cm(昭和8年)(橋本正明)〕

昭和10年代に入るとロクロ線がかなりかっちりと装飾的に、そして多様に入れられるようになる。また胴中央に墨で縁を取った椿を描くのも昭和10年以降である。
昭和12年頃まではまだ初期の様に頭頂は平らである。
〔右より 25.0cm(昭和10年頃)(河野武寛)、24.2cm(昭和10年頃)(鈴木康郎)〕
〔右より 25.0cm(昭和12年頃)(河野武寛)、24.2cm(昭和12年頃)(鈴木康郎)〕

昭和13~14年頃には前髪左右が円形の束を二つ付けて、パーマネントのように描くようになる。この時期をパーマネント前髪の時代という。この時代以降、頭頂は丸みを帯びるようになる。

〔右より 30.9cm(昭和13年頃)(石井政喜)、21.7cm(昭和14年)(鈴木康郎)、17.8cm(昭和14年頃)(北村育夫)〕
〔右より 30.9cm(昭和13年頃)(石井政喜)、21.7cm(昭和14年)(鈴木康郎)、17.8cm(昭和14年頃)(北村育夫)〕 パーマネント髪型の時代

昭和10年代のこけしは後期になるほど、頭の形が縦長になり、それと同時に蛇の目が大きくなってくる。また正面から見ると、丸みを帯びた頭の上部にかなりの部分をしめる蛇の目が見えるようになる。

〔右より 24.0cm(昭和36年)、30.9cm、24.5cm(昭和30年代)(高井佐寿)〕
〔右より 24.0cm(昭和36年)、30.9cm、24.5cm(昭和30年代初め)(高井佐寿)〕

戦後昭和30年代前半は胴に紫のロクロ線が多用された。30年代後半になると墨に黄色のロクロ線を盛んに使うようになった。また同色の細い線を多く重ねて束にして、その中に折れ線を描く手法も現れる。この折れ線は太治郎の同趣の模様を意識したのかもしれない。

橘訪問によって広史の名前は知られるようになったが、それ以前は上の松屋に来たこけしの注文は金蔵のものも広史のものも全て金蔵名義で蒐集家の手に渡っていた。ただ広史の初期のこけしは金蔵とは違った作風で、登頂の平らな大ぶりの頭を、直線的で細い胴が受ける形の非常にすっきりした優作が多い。
金蔵名義の広史作の中には殆ど金蔵と区別しにくいものもある。鑑別の決め手は頭のフォルムと前髪・カセ・眼の描き方であると中屋惣舜は言う〈こけし辞典〉。前髪は、金蔵が上から下に穂先が自然に割れるように描きおろしているのに対し、広史は前髪の割れをその先端が揃うようにキッチリ塗り込ん描く点が違うといわれている。しかし、前髪のこの判別も絶対的なものかわからない。先端を下側から塗り込む描法は、太治郎の前髪の影響だったかもしれない。

〔伝統〕 土湯系松屋系列

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