大滝武寛

大滝武寛(おおたきたけひろ:1882~1937)

系統:独立系

師匠:

弟子:大滝せつ子

〔人物〕山形県鶴岡市七日町の玩具作者。明治15年に千安京田の村長大滝五右ェ門の家に生まれる。一時東京の大きな農園の仕事を手伝っていたが、大正初期に鶴岡に戻り、上京中に覚えた装飾の技術を生かして当時盛んに開催された物産会の飾り付けを引き受け、生来の器用さから会場の小道具など自ら製作した。住居は鍛冶町、馬場町、家中新町と転々とした。昭和10年頃、七日町大通りに間口二間ほどの郷土玩具店を開いた。鶴岡阿部金治郎の物産問屋丸金商店の勧めにより、鳴子からこけしの木地を取り寄せて、それに描彩を施し、新作こけしとして販売した。収集家は「ぶかん」と呼称しているが、「たけひろ」が正しい。〈こけし辞典〉では「武寛は号」としているが、丹野寅之助著の〈東北郷土玩具研究〉では「大瀧武寛氏(樂園と号す)」とあり、号は樂園、本名が武寛である。
昭和13年の前掲書〈東北郷土玩具研究〉や〈東北の玩具〉では「いづめこ」の作者としてその名前が紹介されていた。「いづめこ」は武寛の創案で、埼玉の岩槻人形に縮緬を着せ、藁に詰めて作ったという。
橘文策の〈こけしと作者〉(昭和14年8月)では、写真にこけし人形一本を載せ、「玩具製作者大瀧武寛が新作こけしと名付けるものを発表したことがあった。顔の描彩は鳴子に似て無難、胴に一枚の紅葉を散らし、下から水色で隈取った立田川模様といふ洒落たもの、配色簡素乍ら達筆でよく纏めてゐた。この木地は鳴子から来るのだと聞いた。」 と紹介した。
橘文策は昭和7年に鶴岡に訪れているが、〈こけしざんまい〉のその鶴岡紀行では大滝武寛にも丸金商店にも触れていないので、〈こけしと作者〉掲載の武寛のこけしは昭和7年以降にどこからか入手したものだったと思われる。武寛名義のこけしは、木地を鳴子の高亀から仕入れていたらしい。
大滝武寛の家は丸金商店に製品を納める郷土玩具製作工房であって、家族でその製作に携わっていたと思われる。大滝武寛自身は、昭和12年8月21日に行年56歳で没しているが、こけし作者として蒐集界に知られたのは没後である。武寛没後は娘のせつ子が店を継いで、こけしの描彩も引き継いだ。そのこけしは大滝武寛名義で収集家の手にわたっていた可能性がある。下段〔参考〕を参照。大滝の店は昭和19年まで営業していた。

〔作品〕鳴子型の木地の胴下方に水色のぼかし模様を描き、それに紅葉を配した胴模様が特徴。立田川の紅葉模様を加えるために、鳴子に特別に水色のぼかしを指定して発注したものと思われる。


〔12.2cm(昭和12年頃か)(一金会)〕


〔33.0cm(昭和12年頃)(高井佐寿)

〔伝統〕独立系。 木地は鳴子のもの。

〔参考〕下掲は、胴底に「鶴岡 大滝せつ子 昭和14、11、18」という蒐集家による記入がある。せつ子と記入があるのは、武寛はすでに没後であるので、鶴岡で購入時に描彩者が娘せつ子であることを確認したのであろう。
武寛の生前中にも、鳴子から木地を取り寄せ、大滝せつ子を加えた家族で描彩を行っていたのかもしれない。 


大滝せつ子 〔11.9cm(昭和14年11月)(目黒一三)〕

大滝武寛が胴のロクロ模様を指定して鳴子の高亀に木地を注文していたことは、高亀にも一時期影響を与えていて、木地を挽いていたと思われる高橋直次は、下掲写真のように自分のこけしにも、この胴のぼかし様式を応用した。


高橋直次 〔12.0cm(昭和13年頃)(山本陽子)〕

  • 堀司朗:大滝武寛 -いづめこ人形の創始者ー〈月刊庄内散歩〉(昭和49年10月号 No.7)東北出版企画

 

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