柿崎藤五郎

柿崎藤五郎(かきざきとうごろう:1864~1912)

系統:肘折系

師匠:柿崎酉蔵

弟子:奥山運七/横山新助/木村富吉/八鍬亀蔵/早坂松吉

〔人物] 元治元年(戸籍上は慶応元年4月6日)、山形県北村山郡大高根村山ノ内(現村山市)に生まる。父井上三太郎は農業。17歳ころ、肘折へきて柿崎酉蔵(初代伝蔵)について木地を習う。当時はまだ二人挽きであった。明治20年、24歳のとき、遠刈田へ行き、新地の佐藤周治郎について当時の最新技術である足踏みロクロを習得した。 遠刈田新地に足踏みロクロがもたらされてから、わずか2年後のことである(一説によれば、鳴子をまわって遠刈田へ行ったという)。すでに二人挽きに習熟していたので、足踏みの技術の習得も早く、明治23年、年季明けを待たず山ノ内へ帰郷した。〈こけし辞典〉によれば、その際、年季が明けたらやると口約束を受けていた木地屋文書「御縁起之写」(承久2年庚辰9月12日付御領書といわれているものの写し)他一点を持ち帰ったという。帰郷後しばらく木地を挽いたのち、肘折へ戻り、酉蔵の養子となって、柿崎姓を名乗った。明治27年に酉蔵が没した後、柿崎伝蔵(二代目)の家名(いえな)を継ぎ、明治35年、酉蔵の養女みねと結婚した。明治45年6月27日没、49歳。
妻みねとの間に二男二女があったが、正のみが木地の真似ごと程度をしただけで、いずれも木地を継承はしていない。藤五郎は背が高く立派な男で、腕も立ったという。弟弟子の奥山運七に足踏みの技術を教えたほか、弟子には横山新助(伝蔵の弟子という説がある)、木村富吉、八鍬亀蔵、早坂松吉などがいた。

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〔作品〕 従来作品は不明といわれていたが、〈こけし手帖・574号〉の高橋五郎の投稿によりその作品が知られるようになった。このこけしは村山市袖崎の旧家解体中に見つけ出されたものという。この旧家の主は、「数代前の当主が肘折に行ったとき、幼馴染みの温泉場の木地屋からお土産にもらった」と伝え聞いており、しかも「その木地師は袖崎の近村の出身だと言っていた」という。藤五郎の実家である大高根村山ノ内は、このこけしの発見された袖崎から富並川を遡った所にあってそれ程遠い距離ではない、近村であり幼馴染みと言えばこの木地屋は柿崎藤五郎以外には考えられない。形態は、角ばった大きな頭を、どっしりとした重量感溢れる印象的な胴が受ける、特に胴上部の二本の鉋溝に特徴がある。このこけしの形態を見る限り、形態上は遠刈田の佐藤周治郎からの継承よりも、古式鳴子の柿崎酉蔵の型を継承したもののように見える。 酉蔵のこけしはまだ発見されていないが、この藤五郎と弟弟子の奥山運七のこけしの形態に確実に伝承されていると考えられる。一方で面描を見ると、目の描法は遠刈田様式、特に口の書き方は伝周右衛門と同じであり、遠刈田周右衛門、周治郎家の様式も確実に伝えていて、このこけしの作者を藤五郎とする説を裏付けているように思われる。

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〔25.5cm (明治中期) (高橋五郎)〕
袖崎の旧家より発見された柿崎藤五郎のこけし

鈴木征一がこの型を復元している。

〔伝統〕肘折系運七系列

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