早坂隆

早坂隆(はやさかたかし:1925~2010)

系統:鳴子系

師匠:岡崎斉吉

弟子:早坂利成

〔人物〕 大正14年3月9日中山平の早坂民治・けさよの長男に生まれる。祖父早坂繁蔵、父民治、ともに加美郡田代の横木挽き木地師である。田代は加美郡から峠を越えて最上に至る最上街道沿いにあり、位置的には中山平の南方にあたる。田代には番所も置かれていた。母けさよは中山平の出身。早坂隆は母の実家で生まれた。田代にあった旭小学校田代分校を卒業、同時に父民治について木地の修業を始めた。このころ田代ではタービンによる横木挽きが盛んに行われて、早坂民治の他、慶蔵、与市、鎌田朝人、鎌田丈吉等の木地職人が盛んに横木製品を挽いていた。また昭和14年には鳴子の岡崎斉吉も田代でガスエンジンのロクロを据えて横木を挽いていた。こうした木地業は戦争がはじまるまで盛んであったが、戦時中に振わなくなり、殆どの人が農業などに転業した。
早坂隆は昭和18年19歳のとき入隊、昭和20年に終戦による復員後、自宅で木地を続けたが、横木の大物挽きは振るわず、昭和26年に田代で面識のあった鳴子の岡崎斉吉の工場に行き、そこの職人として働くようになった。
昭和28年29歳で独立開業、昭和30年に志田郡三本木の農業斎藤作治長女せつ子と結婚した。昭和31年頃から妻せつ子が描彩するこけしが売り出されるようになった。昭和33年34歳のときに川向地区に店を出した。昭和35年7月に長男利成が誕生した。
昭和41年京都大丸でこけし製作の実演を行ったときに、蒐集家から強く勧められ、早坂隆自らも描彩を行うようになった。昭和44年10月に鳴子小学校裏に転居、土産物店を開業した。〈こけし手帖・76〉の鳴子特集号(昭和42年7月)で「製作を始めて未だ年数のたたない工人」の一人として紹介されたのが文献に載る最初である。
昭和54年からは長男の利成が隆について木地の修業を始めた。
その後、継続してこけしの製作を続けたが、平成22年3月15日に没した。行年86歳。


右:早坂隆 左:早坂せつ子 昭和37年 撮影:露木昶

〔作品〕 岡崎斉吉の工場で働いていたが、こけしの伝承は必ずしも斉吉からのものではない。まず、妻女せつ子が見よう見まねで描彩を始め、それが早坂隆名義で世に出るようになった。美術出版社の〈こけしガイド〉には、せつ子描彩として早坂隆が紹介された。
早坂隆描彩のこけしは昭和41年以降である。〈こけし辞典〉の写真は、昭和42年7月の本人描彩としては初期のものであるが、高亀風の重ね菊を描いていた。
癖のない素直な作風で、見取りであるが描彩にも隆の工夫が見られる。

〔30.3cm(平成8年)(高井佐寿)〕
〔30.3cm(平成8年)(高井佐寿)〕

系統〕鳴子系共通型。木地は岡崎斉吉-早坂隆-早坂利成と続く系譜。

[`evernote` not found]