系統

こけしは産地ごと、工人ごとにそれぞれ特徴のある形態を持ち、また独特の描彩が施されている。
そうした特徴は、おおむね産地の歴史や、工人の師弟関係の系譜による部分が大きい。それゆえ大きないくつかのグループに分類することが可能である。こけし専門の最初の文献である〈こけし這子の話〉において、すでに木地師の系統を重視しながら、系統分類が試みられている。系統の分け方は研究家によっていくつかの差異はあるが、今日では10ないし11の系統に分類するのが普通である。

〈こけし辞典〉の「系統」の項目は鹿間時夫の執筆であるが、その専門の古生物学の権威として、分類学には非常な思い入れがあり、素人が思いつきや好みで系統分類を議論したり、変更するのを極度に嫌った。その結果、〈こけし辞典〉の「系統」の項目は異例の7頁におよぶ長大なものとなった。
系統を論じる場合には、系統の誕生と分化の過程を正しく把握する「系統発生」と、系統ごとに適切に分節化しうる形態・描彩の特徴を明確にすることの重要性を鹿間時夫は力説した。曖昧な、あるいは主観的な分類ではなく、明確な分節化が可能なように、決定的な識別点と、それを備えたその系統の典型となるこけし、すなわち「模式(タイプ)」を有するこけしを明示すべきと考えていた。

ただ、今日において「系統」を新たに組み替えようとしたり、恣意的にあらたな「系統」を作ろうという動きはないと思われるので、分類学的な煩瑣な議論はここでは行わない。今日多くに受け入れられている10系統あるいは11系統分類の考え方について説明する。

10系統は、土湯、弥治郎、遠刈田、蔵王高湯、作並、肘折、鳴子、木地山、南部、津軽に分ける分類である。11系統は、作並から山形を独立させて全部で11に分類する。〈こけし辞典〉で鹿間時夫は10系統分類を採用している。
山形を独立させるかどうかは、作並こけしの発生がまだ解明されていない当時の議論であり、いまであればもうすこし理詰めに議論できる。

系統分類は、既に述べたように形態のみではなく「系統発生」も考慮している。
系統発生は、次のように考えられている。
① 江戸末期、文政末から天保のころに作並から蔵王東にかけてのいずれかの温泉地で、こけしが発生した。
② やや遅れて土湯では天保、鳴子でも弘化から嘉永にかけて、こけしが発生した。
③ 鳴子の周辺、鬼首や木地山あたりでもこけしが作られ温泉地で売られるようになった。
この時点では系統は存在しない、ただ「蔵王東・作並」「鳴子とその周辺」「土湯」という三つのグループが存在するだけである。〈こけし辞典〉では、この三つのグループを「圏」と呼んでいる(ただし、今日では「圏」として「蔵王東」「作並鳴子とその周辺」「土湯」の三つに分けるという考え方が有力になっている)。
④ 明治17~20年にかけて東北に一人挽き(足踏みロクロ)が伝えられた。一人でロクロ操作が出来るので作業効率を落とさずにロクロを使って形態の加工や描彩することも可能になった。これで形態・描彩のバリエーションを拡大できる素地が整った。
⑤ 一人挽き(足踏みロクロ)の伝承は主に遠刈田・青根で行われたので、そこへ土湯、弥治郎、鳴子、作並、蔵王高湯、肘折、南部から多くの工人が集まった。同時に新技術を用いた新しい形態や描彩の開発がおこなわれ、そのバリエーションは飛躍的に拡大した。
⑥ その工人たちが自分たちの本拠地に戻って、思い思いに特徴あるこけしを作り始めたことにより、今日にまで続く明確な系統分化が行われた。例えば、それ以前に遠刈田と弥治郎に識別できる差異があったかどうかは分からない。肘折も純然たる鳴子であったものに遠刈田の様式が加わってはじめて独自の形態・描彩になった。

すなわち系統発生は明治17~20年の一人挽き技術の伝承が引き金となって起こったもので、この「青根を中心地とした各地のこけしの混交」またはその経験を持った工人からの伝承によって生じたのである。この契機によって、その時代に生まれた、あるいは存在していた「独立した形態・描彩のグループ」を系統とするというのが「系統発生」上の見解となっている。

この考え方に従う場合、津軽や南部の独立系統としての根拠は何によるのかを説明する必要があるかもしれない。特に津軽は大正時代の盛秀太郎が最初で、その発生には鳴子工人の影響があったという説もある。ただ、これを独立系統としていま扱うのは、明治のその時代、すなわち系統発生の時代にすでに「長おぼこ」と呼ばれる祖形があったという伝承があり、これを考慮しているからである。南部のキナキナは十分に古いであろう。描彩のある南部のこけし、佐々木要吉や藤原酉蔵の古いこけしにも、その時代にまで遡り得るものがあることを想定している。

以下にこうした発生の概念図を示した(クリックすると大きな図が見られます)。

したがって、例えば中ノ沢の「蛸坊主」の独特な形態・描彩のこけし作者が相当数存在してグループを形成していても、「蛸坊主」の誕生は大正末か昭和になってからであり、集団としての工人が形成されたのは昭和40年以降であるので、中ノ沢系として独立系統とすることはない。

また、系統の名称のみを変えようとする人もいる。例えば、蔵王高湯の地名は今日では蔵王温泉となっている、そこで系統名を簡単に「蔵王系」に変えようという。しかし、分類学では先行の命名を尊重するというルールがあるので、分類概念が変わらない限り、行政上の産地名が変わっても分類上の系統名を変えるということはしない。

さて、最初の10系統か11系統かに戻って、山形系を独立系統と見るかどうかであるが、山形の倉吉やその兄弟たちは、明治21年に青根・蔵王高湯を経て山形に来た阿部常松より一人挽きを伝承し、胴にロクロ模様を加え、またくびれのある形を作るようになった、すなわち山形独自の形態・描彩を確立したのであるから、蔵王高湯などと同列であり独立系統としても良いだろう。
ただその場合、作並の平賀謙蔵は倉吉に学んで今の型のこけしを作るのであるから、作並系ではなく山形系である。
純粋な作並系は、一人挽き以前の作並の手法を残していた高橋胞吉、および菊籬を描く古作並のこけし(今野新四郎)くらいになる。
さらに複雑なのは、山形の小林一家も常松の影響をうける以前の昔型(細い白胴でロクロ線を描かないこけし)も作る。これはむしろ作並系と呼ぶべきものかもしれない。同一工人を、二つの系統に位置付けるというのもまぎらわしい。この辺の複雑さが、山形系を作並系から独立させるかどうかの議論が分かれるところである。
〈Kokeshi Wiki〉では、おもに慣用の分類に従い、必要に応じて作並系に分類されることもあるということを前提に山形系という呼称も用いる。

また、明治20年代の系統発生確立以後に見取り等で独自の型を発達させた工人グループがいる。仙台、庄内等に多い。〈こけし辞典〉では、「雑系」等の呼び名で表記した場合もあるが、〈こけしwiki〉では「独立系」と呼び、「雑系」は用いない。「雑」という用語は分類学上も適切とは言えず、また工人の中にはこの分類名を嫌うものもいるからである。

なお、〈こけし辞典〉では段階系統(Hierarchy)の概念を明確にするために、系の下に亜系というものを設けた。ただし、亜系分類の基準は必ずしも統一がとれているとは思えないので〈Kokeshi Wiki〉では亜系という表現を用いることはあるが分類学上の厳密な議論はしない。同一系統の中で師弟系列が明確で重要な場合、たとえば土湯、弥治郎、遠刈田、蔵王高湯、鳴子などにおいては「弥治郎系栄治系列」のように系列についても言及する。

参考に、鹿間時夫による形態・描彩の識別表を示す〈こけし辞典〉(クリックすると大きな図が見られます)。

形態識別

このようにこけしの系統は、発生から各段階における分化の要因と過程を明らかにし、整合性の取れた基準で議論されてきた概念である。今日、特定地域で工人数が増えたことに基づいて、パワーバランス的な観点から系統を議論しようとする風潮もあるが、学問的なアプローチではない。

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