佐藤文男

佐藤文男(さとうふみお:1923~1986)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤文助

弟子:佐藤英裕/小林定雄/大旗英雄

〔人物〕 大正12年8月28日、遠刈田新地の木地業佐藤丑蔵・たまよ長男として遠刈田新地に生まれる。父丑蔵はほとんど岩手県の湯田で働いていたため直接の指導を受けることが出来ず、昭和14年遠刈田尋常小学校卒業後、佐藤文助につき木地修行を始めた。当初は水力タービンにより木地の修業を始めたが、昭和15年に文助が温泉町へ工場を移動したため、電気による動力ロクロに変えて修業を続けた。ここでは主にこけし・玩具・菓子鉢等の挽き方を習得した。昭和19年2月海軍へ入隊、終戦とともに帰郷、自宅で足踏みロクロを使って木地を挽いた。昭和21年から23年は遠刈田温泉の相沢幸男方、昭和24年から25年は丸万商店の工場で新型を挽き、その後は自宅で独立した。昭和54年に佐藤善八の家(母たまよの実家)の場所に店を建て、引き続きこけしを作り続けたが、昭和58年秋に体調を崩し入院、病気癒養に努めたが昭和61年4月2日に東北大学医学部附属病院で亡くなった。行年64歳。
文男は何か悩むことがあっても自分の心の中でそれを解決しようという人だった。鹿間時夫は、「文男は自分の中に、文助的なものと、丑蔵的なものを抱えていて、いつもその葛藤の中にいるハムレット型の工人だ。」と言っていた。後年、完成度の高い一連の丑蔵型を作りきったことで、その葛藤にもある解決は得られたのかもしれない。

佐藤文男(昭和17年)
佐藤文男(昭和17年)

佐藤文男(昭和40年)
佐藤文男(昭和40年)

〔作品〕 戦前は同時期の文助を写したものであるが、全体的に稚拙で胴模様はロクロ線と重ね菊の2種類のみである。昭和20年代は筆慣れしてきたため表情に可憐さが加わり、30年代後半には新型の影響が殆ど無くなり安定したものとなる。

〔11.7cm(昭和17年)(寺方徹旧蔵)〕
〔11.7cm(昭和17年)(寺方徹旧蔵)〕

昭和41年にたつみの注文で文助古型を復元している。下掲写真の大小二本組みとして販売された。「こけし美と系譜」図版73ダッシュボード上中央に掲載されたのはこの時の小の方である。


〔右より 24.1cm、15.6cm(昭和41年4月)(橋本正明)〕

昭和44年3月たつみの依頼で酒井利治蔵の丑蔵を復元したのを皮切りに順次丑蔵型を作り始めた。初期のものは形態と様式を正確に写そうとしたものであった。昭和44年7月頃より名古屋こけし会の可部忠雄の企画により、鈴木鼓堂コレクションの各種の丑蔵古作をシリーズとして復元し成功した。

〔右より 20.0cm(昭和44年7月)、24.5cm(昭和46年1月)、18.4cm(昭和46年7月)、22.5cm(昭和46年5月)(橋本正明)〕
〔右より 20.0cm(昭和44年3月)、24.5cm(昭和46年1月)、18.4cm(昭和46年7月)、22.5cm(昭和46年5月)(橋本正明)〕右端はたつみによる酒井利治蔵の復元

昭和44年7月の38cmは〈こけし辞典〉の原色版に取り上げられた。丑蔵型は東京こけし友の会や上井草のおおきでも頒布された。名古屋こけし会による文男の丑蔵型復元シリーズは戦後の復元の一つの成功例になった。文男に復元への意欲があったことと鈴木鼓堂コレクションに湯田時代の丑蔵の逸品が多く揃っていたことがその要因だろう。

〔右より 32.5cm(昭和46年12月)、38.0cm(昭和44年7月)、30.0cm(昭和46年7月)、39.7cm(昭和47年9月)(橋本正明)〕
〔右より 32.5cm(昭和46年12月)、38.0cm(昭和44年7月)、30.0cm(昭和46年7月)、39.7cm(昭和47年9月)(橋本正明)〕
右より二本目は〈こけし辞典〉原色版に載ったものと同時期

 〔右より 26.3cm、25.8cm、22.5cm(昭和46年)(橋本正明)〕名古屋こけし会頒布
〔右より 26.3cm、25.8cm、22.5cm(昭和46年)(橋本正明)〕名古屋こけし会頒布

昭和55年頃より眼点を大きくし黒目勝ちの甘い表情に変わったが、自身の型を確立して安定したこけしを晩年は作ることができた。

〔伝統〕 遠刈田系は吉郎平系列、丑蔵型は肘折系。

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