石山陽子

石山陽子(いしやまようこ:1937~)

系統:蔵王高湯系

師匠:石山三四郎

弟子:

〔人物]昭和12年11月25日、木地業石山三四郎、きくの二女として山形市山寺芦沢1810番地に生まれる。女性三人男性二人の五人兄弟の二番目である。和夫は叔父にあたる。四番目の弟健一も少量こけしを製作したことがあるが、令和元年7月に逝去した。陽子は、学生時代から家業の描彩を手伝い、昭和31年3月高校卒業後は本格的に三四郎の木地に描彩を行うようになった。昭和27年から36年まで10年に亘り描いたこけしは新型のみで旧型ではなかった。松尾芭蕉の絵に「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と書き入れ、宝珠山立石寺境内の三四郎の店で販売された。また「山寺の和尚さん」の唱歌に因み毬の上に和尚を乗せた絵と猫を描いたものも店に出して好評であった。当時は石山和夫、水戸寛、有路静夫も木地を挽いていて賑やかでよく売れたという。岩手県の土産物からも注文があり「夏草や兵どもが夢のあと」と書きいれ、松尾芭蕉の絵を配したものが平泉で売られた。昭和36年3月、23才の時に知人の紹介で渋谷章と結婚して神奈川県川崎市に嫁いだ。昭和38年、39年と帰省の折に50本くらいずつ初めて旧型の描彩を行った。尚、この当時、兄弟で描彩をしたには陽子だけである。その後は二人の子育てに忙しく旧型、新型とも描いていない。

〔作品〕陽子の記憶によると昭和38年、39年に描いたこけしは、4寸位で模様は重菊だけだったという。下掲写真のこけしは13.5㎝、胴底に「山寺 石山陽子」と旧姓で署名してあり、この頃の作品と思われる。目尻の下がったこの当時の三四郎の作風を手本にしている。父より筆致が太いのでおおらかな表情である。手柄と髪飾りの間に点々模様を描いているのが特徴である。


〔ともに13.5㎝(昭和38、9年)(中根巌)

系統〕蔵王高湯系

〔参考〕

  • 中根巌:白鳥保子の荒井雅雄型と石山陽子のこけし〈木でこ・242〉(令和4年5月)

 

[`evernote` not found]