大沼昇治(おおぬましょうじ:1932~1998)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤治郎/佐藤文男
弟子:
〔人物〕 昭和7年5月17日、宮城県刈田郡七日原の酪農業大沼彦太郎の五男として生まれる。昭和21年尋常小学校を卒業後、父の酪農業を手伝っていたが、昭和24年18歳のときから、遠刈田新地の佐藤文男について木地を学んだ。昭和26年より、安藤勇とともに白石市越河に木工所を開き、洋家具の部品などを挽いた。
昭和31年に遠刈田新地に戻り、佐藤治郎について伝統こけしを学び、製作を始めた。その後、治郎の工場で働いていたが、昭和44年3月より佐藤照雄の工場を借りてこけしの製作を行った。昭和46年からは遠刈田温泉の入口に自宅を構えて営業した。
平成10年8月12日没、行年67歳。
〔作品〕 昭和31年、伝統こけしを本格的に作り始めた頃の遠刈田は、未だ終戦直後の新型こけし隆盛期の影響下にあって、全体に甘い作風であった。昇治は師匠の佐藤治郎の作品に倣ってこけしを製作したが、そのこけしも当時の遠刈田全体の作風の影響を受けたものだった。
昭和41年より師匠治郎の先代にあたる佐藤円吉の古型を研究するようになり、昭和44年ころからその復元を試みた作品を作るようになったが、円吉の意匠を現代的な感覚で再現したものであって、清新な魅力を感じさせるこけしであった。
その後、円吉のいくつかの型を次々に復元したが、それぞれが十分に成功し、また作行も安定して、大沼昇治自身の型といっても良い段階となった。昭和45年1月には東京日本橋の高島屋で小林清次郎、奥山庫治とともに、また昭和51年1月には東京大丸で我妻信雄とともに実演を行った。
西崎鉄二は、大沼昇治に魅せられて、〈こけし手帖・168〉「工人大沼昇治の場合」、〈こけし手帖・174〉「大沼昇治工人とその周辺」 と続けてその賞賛記事を書いた。
円吉は、おそらくその父茂吉の全盛期の型をかなり忠実に継承していたはずで、その意味では円吉型を作る大沼昇治は、茂吉の流れを汲むこけしの現代における成功した継承者であった。
〔右より 24.7cm(昭和44年)、12.2cm(昭和44年1月)、26.8cm(昭和46年12月)(橋本正明)〕
なお、円吉型の他に、茂吉型、円吉の弟である孝之助の型なども作った。
〔系統〕 遠刈田系吉朗平系列
〔参考〕
- 矢田正生:わたしたちの大沼昇治(こけし小家・木精遊房)(令和6年4月)