大葉亀之進

大葉亀之進(おおばかめのしん:1904~1999)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤松之進

弟子:大葉富男/桜井良雄

〔人物〕  明治37 年1月20日、宮城県刈田郡七ヶ宿村稲子の林業大葉与一郎・やす長男として生まれる。大正7年・8年の2冬に宮城縣の後援・補助金により開かれた稲子木地講習会で佐藤松之進より講習を受け修業した。この時亀之進が記した木地細工製作寸法帳が残されている。講習会直後は作った玩具類を山形の上ノ山赤湯方面へ卸したが集落の産業として馴染まず、大正の末には他の受講者と同様、農業・山仕事に戻った。昭和16年に菅野新一の勧めで一時的に復活、こけしを作った。昭和33年に再度復活、商品は白石駅前の菊文等で捌かれた。30年代後半以降は次第に製作量が増えて昭和50年にはロクロを足踏みから動力に切換え、その後も精力的にこけしを作り続けた。昭和45年より3年間滑津の桜井良雄にこけし製作を指導した。昭和47年には長男の富男に木地の技術を教えた。平成11年7月9日に96歳で亡くなったが、亡くなる前日までこけしを作っていたという。

大葉亀之進

大葉亀之進

〔作品〕 息子の富男が幼少の頃、木地玩具の「虎」がしばらく家に残っていたらしいが、残念ながら大正時代のものは現在残っていない。亀之進が描いた大正8年の木地細工製作寸法帳は息子の富男が保管しており、下図のようなこけしの図と寸法が描かれている。


〔木地細工製作寸法帳より 亀之進のこけし絵(大正8年1月)(大葉富男)〕

昭和16年頃復活したものは猫鼻・重ね菊模様であるが残るものは非常に少ない。下掲西田コレクションの7寸は、前髪が中央と左右の三筆で描かれ、重ね菊も上部の花弁が上向きに描かれるなど亀之進の特徴を示している。菅野新一による亀之進の復活の初期作であり、大正8年のこけし絵の様式を残している。


〔21.8cm(昭和16年)(西田記念館)〕 西田コレクション

なお、〈こけし辞典〉に掲載されている植木蔵のものは菊の形(花弁が全て下向き)や葉の筆使い等から亀之進ではなく、亀之進と同じ稲子集落にいた佐藤豊七郎の作と思われる。
下掲の昭和18年作山藤輝之蔵)は、目は一側目であるが、前髪は中央・左右の三筆である。こけし千夜一夜第22夜でも、戦前作の作例(昭和17年)を見ることが出来る。様式は山藤輝之蔵とほぼ同じである。

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〔24.6cm(昭和18年)(山藤輝之)〕 鈴木鼓堂旧蔵
胴底に鼓堂(鈴木鼓堂)と集古庵(浅野一恕)の両印あり

〈こけし美と系譜〉図版40にて亀之進の昭和25年作というものが記載されているが大正時代の亀之進の手によって描かれた寸法帳の菊模様とまったく同手である。辞典には「豊七郎名義の中には亀之進の作が混入している場合が多く~」と記載されているが実際は逆で、亀之進名義のこけしの中に豊七郎の作がある。
昭和33年復活時のものは〈こけし〉(昭和35年版)に旭菊のものが掲載されており、16年時のものと比較すると三筆で描かれた前髪がやや大きくなっている以外は同種のものである。下掲の高井蔵はこれに近い。


〔 27.3cm(昭和33年)(高井佐寿)〕

〔右より 18.6cm(昭和38年)、19.5cm(昭和33年4月)(庄子)〕
〔右より 18.6cm(昭和38年)、19.5cm(昭和33年4月)(庄子勝徳)〕

その後はすぐ形態が変化し、さらに1年ほどすると描彩も当時の遠刈田で作られていた一般型に変化した。昭和40年代後半から次第に表情の位置が上方へずれ、手柄・胴模様も晩年は相当細いものになった。

〔21.2cm(昭和58年)(庄子)〕
〔21.2cm(昭和58年)(庄子勝徳)〕

〔伝統〕 遠刈田系吉郎平系列松之進家。松之進の弟子ではあるが、こけしに関して伝承は薄いようである。

〔参考〕

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