佐藤吉之助

佐藤吉之助(さとうきちのすけ:1908~1973)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤吉五郎

弟子:佐藤哲郎/村上正/長尾昌儀/与名本豊/萱場稔/黒羽弘/佐藤義光

〔人物〕 明治41年9月20日、遠刈田新地の木地師佐藤吉五郎の四男に生まれる。佐藤吉弥は兄、佐藤茂吉は叔父、佐藤吉郎平は従兄弟にあたる。
明治42年、家族で新地より遠刈田温泉に移った。大正8年から父吉五郎につき木地を修業し、大正10年遠刈田温泉に開設された北岡木工所で父と共に職人として働いた。この工場では佐藤寅治、直助、巳之吉、治平、豊治、吉弥、正吉、英次なども職人として働いた。昭和7、8年には同木工場をやめて、各地を遍歴、山形の西内政太郎、札幌の佐々木甚などで職人をした。また歯科医や、時計商の所で技師として働いたり、炭鉱等で働いたこともある。
昭和18年ころは福島県平の丸木木工所の職人となった。同年名古屋の山下光華の依頼でこけしを作り、その頒布が行われた。その後行商等をしていたが、昭和21年春に遠刈田に帰郷した。
一時、本家の吉郎平の所に間借りしていたが、昭和22年佐藤好秋の工場を買って、木地挽きを再開した。新地の吉弥もここで働き、吉弥の長男哲郎が弟子となって木地の修業を行った。
昭和21年ころから弟子を取り、長尾昌儀(昭和6年パラオ生まれ)、村上正、与名本豊、萱場稔、黒羽弘(吉之助の甥)、長男義光等を養成した。以後新地で木地業を続けたが、昭和38年病気で入院し、3年後に一時退院して気の向くままにこけしを作ったが、半年後に再入院し、それ以後はこけしの製作は行わなかった。昭和48年4月28日、公立名取病院で心不全のため没した、行年66歳。

佐藤吉之助 昭和33年

佐藤吉之助 昭和36年 撮影:露木昶

  〔作品〕 大正10年から職人をした遠刈田温泉の北岡木工所で作ったと思われる吉之助のこけしが少数残っている。下掲写真のこけしは天江コレクションのもので、北岡時代の吉之助である。
非常に古風な佇まいのこけしであるが、眉、瞼の彎曲など後年の吉之助の特徴は既に現れている。

〔18.8cm(大正末年)(高橋五郎)〕 天江コレクション 北岡商店
〔18.8cm(大正末年)(高橋五郎)〕 天江コレクション 北岡商店

下掲の2本は西田コレクションに納められているもの、山下光華の頒布になるもので胴底には山下光華の堂号「木華子堂」頒のゴム印が押されている。やや甘美さが加わっているが、山下光華はこの甘美な雰囲気のある吉之助をこよなく愛した。

〔右より 21.2cm、24.2cm(昭和18年)(西田記念館)〕 西田コレクション 
〔右より 21.2cm、24.2cm(昭和18年11月)(西田記念館)〕 西田コレクション

戦後は昭和24、5年から作っていた。昭和30年代前半は大振りの角頭に大きく彎曲した眉、瞼を描き、特徴のある面描のこけしを作った。鬢の位置も漸次下がっていった。彎曲した細い目の作風は、甘さに流れず、アルカイックな情趣を感じさせた。

〔右より 24.2cm(昭和32年10月)、24.4cm(昭和33年)(橋本正明)〕
〔右より 24.2cm(昭和32年)、24.4cm(昭和33年)(橋本正明)〕

昭和33年には鹿間時夫が小原直治の復元を吉之助に依頼したことがある。〈こけし 美と系譜〉図版59に復元作が掲載されている。
またこの頃に、胴の中央を細くして、輪を二つほど入れたヤミヨ形式のこけしを「福こけし」と称してよく作った。
昭和37年頃に、佐藤丑蔵などが作った笑い口のこけしに倣った面描のこけしを作り始めたが、丑蔵のように童女の笑いとはならず、やや奇怪な表情となった。あまり売れなかったようで、昭和40年代前半まで遠刈田温泉の土産物店にはこの笑いのこけしが多く残っていた。ただ、このころ病を得てこけしの製作を絶ったので、この笑い口の型が吉之助の最後のこけしとなった。
 
〔24.3cm(昭和39年)(橋本正明)〕
〔24.3cm(昭和38年)(橋本正明)〕

系統〕 遠刈田系吉郎平系列

〔参考〕

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